き、ゆっくり一盃酒でものめば癒る種類のものではなかった。自分の目的は、はっきり目の前にあるのに、曖昧な、ちぐはぐな何ものかで遮られ、一思いにそこに至れない歯痒さ、焦立たしさが彼の感情を重くしているのであった。今日の一騎討ちの結果についてもスーラーブは、余り後口のよい気持ではなかった。慧眼な傍観者は、確に、自分が対手を倒した時と、立ち上った時との間に、充分剣をぬき始末をつける余裕のあったのは認めているだろう。躊躇したのも見たろう。意識して対手を助けようとしたと云われても、スーラーブは、その点を明瞭に説明する言葉が自分にないのを自覚した。父の連想があるので、何んともいえず組敷かれた敵の年寄りをあわれに思ったということはある。けれどもあの瞬間、自分の心に、助けようという、はっきりした意志はなかった。殺しきれないうち、局面が変ったのだ。自分の目的に早く達するためには、あの時、あの老戦士との勝負をさっさと片づけた方が好都合であった。本当の愛からでもなく、ほんの心のはずみでああいうことになり、而も、その結果について、責任ある説明を要求される立場にある自分を考えると、スーラーブはくしゃくしゃした。
前方には、陣地で燃く篝火のチラチラ光る焔が見え、パチパチ木のはぜる音が聞え始めた。
スーラーブは、自分の心にある妙な優柔不断めいたものを、しんから苦々しく思った。対手が真実父親であったため、自分の気持にああいう現象が起ったのではなかろうかなどという疑問は毛頭起らなかった。彼は、父が、自分のような青二才に敗けようなどと夢想もしなかった。
四十四
けれどもこの時、スーラーブが後を振かえり、透視力のある瞳でイランの陣を瞰下すことが出来たとしたら、彼は思いがけない一つの光景を見出しただろう。
混雑の頂上にあるイランの陣の間を、スーラーブの膝の下にされた今日の老戦士が、一人で、いそいで、自分の幕営に戻ろうとしていた。
彼も、他の将と顔を合せるのを厭うらしく、物蔭を、厳しい様子で歩いた。武具をつけたまま、兜だけをとったギーウが大股に数間あとからその姿を追っていた。燃き始められた篝火の間に黒く、見え、隠れするルスタムの後姿には明かに或る感情が表れていた。苦しい、激しい、暗い感動を、やっと意志で制し、威厳の裡に封じ込めているように、肩つきや頸が硬ばって見えた。脚ばかりは、
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