ば、何! 雑作ない。卿には若さという味方がついているもの。儂ももう一度、こんな胸を持って見たいな」
そして、フーマンは、スーラーブのむき出しの胸を好もしそうに眺め、女についての戯言を云った。スーラーブは、フーマンが、酔いに紛らせ内心では確かり云うべきことの選択をしていると感じた。酒が彼の唇を自由にしているだけ、楽に、要点をそらして下らない題目にすべり込める。
明日の合戦に、どうしようという考えで、彼は黙ってしまった。単に一人の敵として見ても、イランの戦士は剛の者であった。力量その他が、スーラーブに或る懼れを抱かすほど匹敵していた。今回の経験で見ても、最後に勝負を決するものは腕の違いでなく、精力と運だけの問題とさえ思える。ルスタムでないなら、スーラーブは、この敵に命は遣りたくなかった。遣らないためには殆ど天運が自分の味方になってくれなければならない。スーラーブは、フーマンが何時の間にか、自分の傍を去ったのさえ知らなかった。彼は一人で苦笑いを洩した。そして、疲労を恢復させる必要から、すぐ寝台に横わった。が、眠りはなかなか来ず、漠然とした不安が、夜の幕営の裡で彼の心にのしかかった。戦場で、父とめぐり合うということは、彼が空想で描いたほど真直に工合よくは行かないらしいことが明かになって来た。スーラーブは、肌身はなさず持っている母の記念の頸飾を、片手で触った。不意に、サアンガンの城のことや、シャラフシャーのことや、遠い祖父の臨終のこわかった記憶が、きれぎれに通り過ぎた。彼はそのまま寝入った。
四十一
翌朝は、晴てはいたが雲の多い天候であった。薄い雲母でも張ったようにむらのない白雲が、空一面|蔓《はびこ》り、その奥から太陽が、平たく活気なく曠野の乾いた土地や蕁麻、灌木の叢を射た。スーラーブは、早朝、天幕の隙間隙間から白く差こむ光で目を醒した。すぐ、今日の一騎討のことを思い、彼は、平気なような不安なような妙な心持になった。食慾がないのを、殆ど無理に、疲れまいとする要心だけから多くの食物を摂った。そして武具をつけ始めたが、鉄の胸当を執りあげると、スーラーブは、暫らく躊躇した。いっそのこと、頸飾を胸当の外に出して懸て置いたらよくはあるまいかという考えが、頭に閃いたのであった。然し結局もとどおり、それは肌衣の下にしまったまま、胸当をつけた。母にとっても自分にと
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