衡を失いかけた。あいにく、兜とその下の面覆いで顔全部は見えず、従って、母ターミナにきいて来た眉の上の大黒子などの有無は見ることさえ出来なかった。けれども、父の他にイランにこの年配の戦士が在ろうか。スーラーブは、心も心ならず、屡々顔を見、遂に、万一を恃《たの》んで訊いて見た。むごく撥ねつけられ、その精神の沈みがもとに整いもせぬうち、相手は、まるでその質問に煽られたように打ちかけて来る。
 一度二度、スーラーブは、寧ろ、馬の機敏な本能で、敵の打撃から免れ得た。やがて彼も力を凝し、剽悍になった。ルスタムでないなら、早く片付け目ざす人に出会おうと、燃える力が、若いスーラーブの筋骨に、筋金入りの威力を与えた。蕁麻《いらくさ》の生えた地面は、駈け寄り、引き分れる二頭の馬の蹄の下で、濛々と塵をあげた。ぎらつく日光を掠めて、イラン戦士の鉾が飛んだ。さっとくぐりぬけ、ツランの若者が、鉾をふりかぶった。蹄の入り乱れた音の間にぶつかる鉾が、尾の長い、凄じい響を立てた。十度に一度、何方かの鉾が、敵の体か、乗馬に触れた。人間は、歯を喰いしばって呻き、その打撃を堪えた。馬は、恐怖して嘶き、跳上り、暫く乗手を忘れて、暑い平地を彼方此方に走った。イランの戦士の顔からも、ツランの若者の顔からも、汗は雫になって流れ出した。荒い互の呼吸の音が、鳥の羽搏のように聞えた。一騎討ちは、いつ終るともしれなかった。両軍の将卒は、固唾をのんで成りゆきを視守った。特にツランのバーマンは、イラン戦士の普通とは逆な鉾の持ち方で、すぐルスタムと知った。彼は粘液質な顔に、激しい動乱の色を浮べ、フーマンのところに駆せつけた。フーマンもこの前の戦いの経験で心づくところがあったと見え、すぐ列を離れ、彼と会った。彼等は一言も云わず、眼を見合せただけで、意味を諒解した。そのまま並んで、一騎打を視た。戦士等の動作には、劇しい疲労が見え始めた。馬も、全身汗にまびれ、脇腹は破れそうに波打っている。すると、イラン勢から、一騎、逞い戦士が列を離れ、また新な勇気を盛返して鉾を振ろうとする二人の戦士等の方に進んだ。バーマンはそれを認めると、急いで馬をけり、其方にかけつけた。激烈な、この一騎討は引分かれ、また明日勝負を争うことになった。
 大部隊の接戦で、ツラン軍は九十余人の死者を出した。イラン勢も、ほぼ同数の者を失ったが、重傷者は、却ってツラン方よ
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