」「キュリー夫人」などにさえ、私たちは感動し、毅然とした人間精神の美しさに詩と慰藉とを与えられた。人間が人間を生かし殺す力の媒介物たる金銭というものの魔術性をあらわにし、それが近代社会を支配する大怪物として蓄積されてゆく過程を明らかにして、人間性の勝利の実質、生産する者が生産を掌握することの自然さを示した社会科学者たちの業績と、それを実践する人々にたいして、その雄々しさと真実さと、それゆえの美を感じられないということがどうしてありうるだろう。
 愛が愛でありうるのは、それがつねに具体的であるからである。あらゆる状況に面してひるまず、その必要に応じて必ずなにかの方法を愛が見いだすのは、それが具体的であるからこそだと思う。美が美として存在するのも具体的だからこそである。空虚な空間をきって、あのおどろくべき美を創りだしている法隆寺壁画の、充実きわまりない一本の線をひきぬいて、なおあの美がなり立つと思うものはない。詩情の究極は人間への愛であり、愛は具体的で、いつも歴史のそれぞれの段階を偽りなくうつし汲みとるものであるからこそ、そこに真実と美のよりどころとなりうる。わたしたちの世紀に、どうして私たちの世紀の真と善と美とがありえないだろう。

 一九四五年の五月、地球は神々しい人間の歓呼の声にどよめいた。新聞は、それをナチズムとファシズムの完全な敗北という見出しで伝えた。世紀のよろこび、幸福、美と詩との本質は、その歓呼のうちにききとられたと思う。一言につづめていえば、私たちのこの世紀こそは、大衆とその理性の勝利、民主の世紀であることが、心から肯けたのであった。十九世紀に大芸術家、科学者、政治家を輩出させた社会の創造的可能性は、その矛盾の深まるにつれてしだいに萎靡して、二十世紀前半は、ほとんどあらゆる分野においてその解説者、末流、傍系的才能しか発芽させえなかった。十九世紀は、その興隆する資本主義社会の可能性で、偉大な人間才能を開花させたのであったが、いまやそろそろ地球をみたす人間社会により広汎な人間性を解放する民主の形態が出来て、新しい世紀の本質的に一歩発展し前進した精華が輝きだそうとしている。真に新らしい社会と文化の章がはじめられようとしている。うたの主題は、三つの民主主義と名づけられる。なぜならば、それが、現世紀の詩と美とのよりかかることのできないテーマであるから。私たちの世紀は、資本主義的な民主主義、社会主義的な民主主義、そして、おくれながらもつよく翼を羽ばたいて歴史の二行程を同時に推進する必然におかれている中国や日本などの新民主主義と、この三つの民主主義の進行が世紀の実質をなしているのであるから。

 日本は、西欧のルネッサンスを知らなかった。広大な地域をなかばアジアになかば西欧にしめるスラブ人も、イタリーや、フランスがそれを経験したようには経験しなかった。近ごろ、シェクスピアの芸術が、ルネッサンス時代における人間解放の典型としてふたたび評価されている。日本でも、近ごろ「真夏の夜の夢」が五十日間上演されて、東宝の財政をうるおした。
 興味深いものは、私たちが今日面している人間性解放の現実的諸要素の構成と、ルネッサンス芸術家としてのシェクスピアの世界での人間解放とが、どのようにたがいに似ていて、しかも絶対に異った歴史の内容によってへだてられているかという点であると思う。
 たとえば「真夏の夜の夢」が今の日本で上演される価値は、主人公たる二組の恋人たちが、アテネ市の封建的な父権に抗して郊外の森へ逃げ、貴族的な支配者の権力を妥協させて、めでたく結婚するという、意欲と行動との一致した人間性の主張にあると示されている。たしかに、それは「嫁にやられる娘」の多い日本の封建の習慣に抗議する一つの声であろう。けれども今日の若い世代にとって、恋人たちの駈落ちが、愛を主張し、その主張によって行動する解放の方法として、現実に訴える力をもっているだろうか。二人並んで勤め先から「真夏の夜の夢」を観にきていた幾組かの恋人たちの、今日の悩みと求めている解決とは、親の反対に駈け落ちしたにしても、その先の先までつけまわす食糧危機を、二人のきまった月給のうちでどう打開するか。なにより先に落付く住居はどうして見いだせるか。さらに、百万人の失業と予告されているその百万分の二に二人がなる可能についての憂慮ではなかっただろうか。ここに、今日の日本の民主主義の実状があり、その段階がある。封建的な人間性の否定に抗すると同時に、その意欲と行動との統一された表現として、歴史はすでにはっきりと、資本主義の社会の混乱と矛盾とにたいして合理的処置を主張する勤労大衆の民主的要素が正当であることを設定しているのである。
 ルネッサンス時代の人間性の主張は、疑いもなく、木偶のようであった人物を、笑
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