い、怒り、わめく形相さまざまの人間として解放した。レオナルド・ダ・ヴィンチは、聖母でもなければ天女でもない人間の女性像モナリザを描いた。このジョコンダの微笑は、ながく見つめていると人のこころをもの狂わしくするような内面の緊張した情感をたたえている。じっとおさえて、その体とともにレオナルドとの関係をも動かそうとしなかった貴族階級の女性の激しい思いを溢れさせている。この人間性の覚醒と行動の抑制との相剋があらゆる方面にあらわれていたルネッサンス時代に、インドにおける植民地の拡大と、その結果、より速い資本主義社会への足なみをもったイギリスで、シェクスピアの豊富な才能が、思いをこめてじっと動かず微笑するレオナルドの女性を解放し、ヴァレンタインの一夜、アテナの二人の貴女を郊外の森へ駈け落ちさせたことは、注目に価する。このことは、十八世紀の末にマリー・ヴォートンクラフトを、イギリスが生みだした歴史の先ぶれともなるのである。けれども、それならば、シェクスピアの世界で解放された二組の恋人たちは、ほんとうに自分たちの愛において自由であり自主であっただろうか。シェクスピアは、森のいたずらなこだまパックを登場させた。パックが二人のアテナ人の瞼にしぼりかけた魔法の草汁のききめは、二人の男たちの分別や嗜好さえも狂わせて、哀れなハーミヤとヘレナとは、そのためどんなに愚弄され、苦しみ、泣き、罵らなければならなかっただろう。大戯曲家シェクスピアは、大胆な喜劇的効果として、パックの草汁をつかったのであろう。彼の時代の観客は、その騒々しい粗野な平土間席で、昨日帝劇の見物がそれを見て大いに笑ったその笑いの内容で、笑って見物したであろうか。この世にありえないことがわかりきった安らかさで笑っていた、その笑いを笑ったであろうか。ルネッサンスは、近代科学の黎明ではあったけれども、錬金術師のフラスコと青く光る焔とは、まるでその時代の常識に、真黒くて尻尾のある悪魔を思いださせた。魔法の汁で恋のまことが狂わせられるということもないといえないこととして、シェクスピア時代の観客は、笑いながらも本気まじりに、パックのわるさの成行を注目したことであろう。それだからこそ、劇的効果はいっそうつよめられる。
日本の若い人々の間で愛の真実は、無惨な戦争による生別死別によって狂わされ、ためされた。今日の社会生活全般の不安定な錯雑したいきさつの間に、愛の堅忍と誠実とが試みにかけられつつある。親の権威よりはるかに強く猛々しい社会不合理に面しているのである。
その国の民主主義が社会主義の段階まで到達しているところ、そして、非条理なナチズムの専制に献身して闘ってそれを撃破しえたソヴェト同盟の文化が、シェクスピアをとりあげる場合、それはまたおのずから異っているであろう。成人したとき、人々はゆとりのあるこころもちで、自分たちの少年時代、青年時代を回想し、その自然発生する人間性がさまざまに現わされた経過を、微笑して顧み、語る。社会連帯のつよさでかえって個性が護られ、家庭や母性が確立し、勤労による財産の蓄積さえ安定されている社会で、はるかとおいルネッサンス時代に、人間が自分の人間性をどのように発揮しはじめたかということを舞台で眺めるのは、さぞや興味深いことであろう。それは、明かに今日にあっても同感される昔噺の一つである。「オセロ」を、嫉妬からデスデモーナを殺す悲劇の主人公とは見ず、相互に与えられていた信頼を裏切られた心の破局と理解することもわかる。そういう今日の共感に交えてデスデモーナのオセロにたいする封建的な屈従と畏怖とが、大切な愛をおどおどとさせ、才覚とほんとうの正直さとを失わせ、一枚のハンカチーフを種にイヤゴーの奸策につけ入らせた。そのルネッサンス女性の暗愚さは、ソヴェトの若い観客の目からけっして見落されてはいないに違いない。
大人になりきった人は、少年から青年期の無思慮な思い出にたいしてさえも微笑むのだけれども、いままさに十七歳であり、少年と青年とのあいなかばした成長の過程にあるものが、直情径行に願うことは何であろう。それは、ひたすらに一人前の青年であろうとすることである。日本の民主の段階はここにある。それであらゆる面で大人になることを欲してこそ、自然である。幼年と成年、老年と自身との間に、鋭い歴史的自覚の線を感じ、それをおしすすめ、新民主主義という自身の興味つきない課題を完遂して、世界の中に一人前になろうと欲してこそ、自然なのである。
燦く石にさえ、宝石として一つ一つにさまざまの名がつけられている。人間が、驚歎すべき生命の消費に耐え狂乱的に見えるまでに、その理性を試しつつ進展させて来た社会の歴史の一こま一こまに、独特な価値、その美しさがないということはありえない。わたしたちの精神が自身面してい
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