は、なにか人間らしいゆたかな詩情が欠けている。やさしい愛と慰藉とに欠けている。その心情的な飢渇がいやされなければ、頭脳的にわかったといっても、若い命を傾けつくして生きてゆきにくい。そういう声があるのである。
 さらに、複雑な一群の人々の場合がある。今日、自分たちが麗わしい精神の純朴さで歴史の発展的面に従いきれないのが、一つのひねくれであり、日本の野蛮によって刻みつけられた傷であるのは、よくわかっている。しかし、そのひねくれによって自ら苦悩し、その傷の痛みを感じながら、そこまでなんとかして伸びようと試みている一群のあるのも、日本の現実である。この正道さは、今日の現実の中で、いいかげんな民主主義便乗者よりも正義をもつものである。そのひねくれの存在権は、世代的なものとして主張されているのである。
 これらは、すべて非常に心理的である。それらが心理的であるということに問題を生じるのは、これらの心理的な現象をとく力は、窮極においてその心理の枠内にはありえないのだという事実を、承服しようとしないところにある。個々の人が個々の心理に固執している傾きがきつすぎる。その心理によりすがって、手ばなさないことが、民主という名をもって出現した社会主義的な精神と個性との画一化への抵抗であるとさえ、誤って合理づけている人々があるのである。二様三様の心理は絡みあって、その持主たちを停頓させているばかりではない。この病的にあらわされている主我とその心理傾向は、主観において強烈でありながら、客観的には一種の無力状態であるから、より年少な世代の精神的空白をみたし、戦争によって脳髄をぬきとられた青春にその誇りをとりもどし、その人間的心持に内容づけを与えてやる、どんな精神的熱量をも放射しえないでいるのである。
 この現象は、まじめな憂慮をよびさますべきことだと思う。なかば封建の抑圧は、私たちの精神を、背丈のちぢんだ走力のよわった脚のものにしたばかりか、戦争は人間群をきりさいて、世紀の中に、いくつかの世代の層を分裂させているのである。いためつけられた主我の病癖は、当然の結果として、世界史の推移のモメントとしての時間の感覚をも客観的には把握していないのである。

 いくとおりかの例のうちで、誰の衷心にもその響にこたえるなにものかをふくんでいるのは、第二の若い人々の心情にある渇望についてである。これについて少し考えてみよう。人間社会の進展の原理が社会科学の立場から解明され、社会主義の社会、共産主義の原理が語られるとき、われわれの合理性はそれを理解し、支持しながら、そこに、なにかみたされない思いをもつというのはなぜであろうか。その間にもっとなにか瑞々しいものを、人間らしいものを、と求めるというのはどうしてだろうか。今日、荒らされ、放りだされた私たちの心情は、それほど美しさ、慰藉、愛と詩とにかつえているのは実際である。ほんとうに私たちは号令に飽きた。よくもあしくも強制にはこりた。
 だが、そもそも私たち人間がギリシアの時代からもちつたえ展開させ、神話よりついに科学として確立させたこの社会についての学問、社会科学とその究明よりもたらされる将来の構成への展望とは、人間情熱のどういう面とかかわりあったことなのであろうか。これは一片の乾いた思弁であり、闘志のつよいある種の人間たちだけの道具なのだろうか。すべての学問は、よろこびを求めてやまない人間心情を源として、そこから湧いて出ている。幸福であろうとする意欲は、人類が幸福という言葉の符号も、文字としての記号も持たなかったときから存在しつづけている。人類が社会を構成しはじめてから、それについての認識をもちはじめて以来、より幸福に、より快適に生きようとする希望から築きあげてきた成果の見事さについて、くりかえすのはほとんど愚な業である。一方において、芸術と自然科学とを幾世代にわたって花咲かせてきた人間が、社会認識の成熟する諸条件がそなわりはじめた十八世紀末から、社会を学問的探究の対象とし始めた。資本主義社会が西欧で確立した十九世紀に、その基盤としての生産関係を究明して、その矛盾とその合則の発展の過程を、共産主義社会の出現にまで追究した人間精神を、私たちは精美なものとして感じることは不可能だろうか。地上のあらゆる生物のうちで、自分たちの生き死する社会についての科学をもっているのは人間ばかりである。芸術を創り、それを愛し、宝とする能力は人類にしかないのと同じに。そこに、人間のよろこびはありえないだろうか。
 まじめに科学の仕事にたずさわり、専門的にまた世俗的にあらゆる難関とたたかっている今日の日本の科学者たちから見れば、おそらくあまり安易通俗に、全篇が物語として扱われているに相違ない映画、パストゥールを主人公とした「科学者の道」や「エールリッヒ
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング