でも女の教養というものが飾りとして、嫁入道具としてだけ与えられていた結果、いざ本当にそれで食わなければならないとなったときに、知っていたはずのフランス語もピアノも絵も、生活の役に立たないことが証明されて、悲劇的にその命をを終る美しく潔白な女の一生を描いて心を打つものをもっている。現在それで食わないにしろ職業としてやってゆけるだけの実力があるということこそ、ある仕事をもつことで女に心と生活のよりどころを与える必須条件だと思わずにはいられません。そして、それを職業としてゆくからこそ、道楽では踏み切れないところをも踏み切って、自分の技術をも発展させてゆくのではないでしょうか。社会的な責任の自覚やある意味で仕事の上での闘志も強靭にされてゆくのではないでしょうか。よく世間で、なかなかやるが結局お嬢さん芸でね、奥さん芸でね、という批評を、殿様芸に並べていうのは、ここのところの機微にふれていると思います。
 では、お嬢さん芸でない技術、奥さん芸でない技術をそれぞれの仕事において女がつけて行くことが、今日の社会の事情ではたして楽なことでしょうか。私はこの答えは決して容易でないと思います。この頃は日本でも生活に困らない教養のある若い女のひとがいろいろの仕事に従事するようになって来ました。けれども、その根柢においては、真に女の生活の社会的条件が高まったとはいえない例が多い。月給で自分が食べたり、家庭を扶助したりしている女はとかくうるさい、月給なんかなしでも何か仕事をしたいという娘がこの頃は相当沢山いる、そういう女でもさがそうじゃないか。そういう言葉が平然といわれている状態です。若い女のひとの興味趣味などに沿うて、雑誌の編輯員の中には、今日一人や二人きっとこういう種類の若い女の技術志願兵、実は女の労働力・才能・教養を社会的にダンピングしている人がいるのです。
 それらの若い女の人たちはもちろん微塵の悪意もないのです。これまでの家庭生活が若い女に加えている窮屈な常套をはねのけて、生活的によりひろい社会との接触の中に生きたいという欲望から、また、仕事そのものに興味があるということから、無邪気にこの社会の機構が思いつかせる悪計に利用されているのです。
 職業的[#「職業的」に傍点]という言葉は、現在の社会では私たちの感情に何か特別な響きを与えます。反対に、あああのひとは職業的にやっているのでは
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