ないから、という時、おのずから前の場合とちがう感情を刺戟されるならわしです。しかし、これはどういう理由によるのでしょう。はたして自然なことなのでしょうか。
 今日の社会では、職業的ということと金儲けが眼目ということはほとんど同義語に印象される習慣です。生存競争が全く個人主義的に行われているから、職業的というとき、ひとよりちょっとでも分をよく立ちまわるということがすぐピンと来るような憐れむべき事情におかれているのです。職業的にやっていると聞いて、はじめてそのひとの技術なり責任感なりが安心して感じられるようにならなければ間違いなのではないでしょうか。
 婦人車掌が結婚するとやめさせられる。そのことに彼女たちが反対の意見を表していることは周知の通りです。こういう女の職業についての奇妙な不公平も、要するに過去の久しい間、女の職業というものについて女として求める確乎性が社会的に認められていなかったからです。女自身、ましてインテリゲンツィアの女のひとが、とかく抽象的に自己完成のための仕事[#「仕事」に傍点]を偏重して、それを正々堂々と職業として、それ相当な社会的評価を求めようとしなかった傾向はふるい社会の通念を計らずも裏から合せ鏡で照り返しているようなものだといえます。
 それにもかかわらず、昨今はいくつかの事情が輻輳して、ますますその仕事と職業との分裂が強まって来ている。そういう傾向の一番あらわれ易い文学の領域などではこの現象がまことに顕著です。直接生計の不安のない夫人たち、家事はほかのひとにまかせることのできるだけゆとりある社会的環境の女の人々がある意味で進出して来ています。これは、今日の文学そのものの問題も一面にふくんではいるが、そういう条件をもった婦人たちの文学の仕事ぶりと、一方に、真の意味で若い時代の声を反映するような新しい婦人作家の誕生と発育の困難性とを客観的に比して見ると、単純に女の文化は高まりつつあるといい切れぬものがある。今日の現実生活のうちで、仕事と職業とを切りはなして考えるひとの事情というものは、多く何かの意味で特殊なものです。その特殊な環境の作用からある意味での貴族主義、ひろい目から見るとある意味での独善に傾く危険がなくは無い。大多数の女のひとの今日の生活は逼迫の度を加えられていることは実に明らかなのですから。サラリーマンの妻としての暮しにおいても、サラ
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