えば新交響楽団の演奏会のおりおり、ハープの弾奏者として舞台に現れる加藤泰通子夫人があります。日本に演奏者の少いハープがこの夫人の趣味にかなったことから稽古をはじめられたでしょう。はじめは全く生活に余裕ある夫人のよい一つの仕事であった。ところが技術の進歩につれ、だんだん公開の演奏会へも出られるようになり、夫人の仕事はいつしか邸内の音楽室から公会堂へまでうつり、よりひろい社会関係の間に露出されて来ています。
また、先頃フィリッピンのバシラン島附近で高麗鶯の新種を発見して博物学界に貢献した、博物採集を仕事としている山村八重子さんの自分の仕事に対する愛情は、すべての事情からいわゆる商売気は離れています。彼女には商売気を必要としない生活の好条件があり、普通ならば、遊惰に消されるその好条件を、学問的に活かして社会的なあるねうちを与えているところに、彼女の仕事の価値が輝いているといえます。
吉井徳子さんの場合は、幾重にもたたまってかぶさって来た境遇的な不幸を、一人の女としてはねかえして生きる道を見出すために佐賀錦の仕事がとらえられました。仕事、そして職業。ここでは二つのものが、生活の必要という立前から虚飾なく統一されている。
あのひと、このひと、と実際の場合について考えて見ると、仕事らしい仕事をしている女のひとは、結局みなそれぞれの技術で、万一のときは十分やって行けるところまで達している、つまり玄人であるということに気付くのです。
私は、ここに人間の本然的な社会性と仕事の現実性の面白いところが潜んでいると思います。仕事というにあたいするだけの仕事はこの社会の現実の中で決して超人間的、超社会的関係にはあり得ない。人間と人間との相互的ないきさつの間からこそ、仕事は生じるのであると見られます。仕事というのは、あるひとの生活意欲の社会的価値への転化具体化であるのではないでしょうか。人に見せるためではない。人に聞いたり、読んだりして貰う為ではない。本当に私一人の慰みのためにという表現で女のひとが、自分の余技、仕事を語る。特に日本ではそれが一つの謙譲なたしなみのようにさえ見られて来た習慣があるけれども、そういう慣習こそ、わるい意味で女の仕事を中途半端なものにしてしまっていると思います。ポーランドの代表的な婦人作家エリイザ・オルゼシュコの「寡婦マルタ」という小説は、ヨーロッパの文化の間
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