歳で政談演説を行い、婦人政治家として全国遊説をし、岡山に女子親睦会というのが出来た。成田梅子は、仙台に女子自由党を組織し、男女同権という声は、稚拙ながら新興の意気をもって、日本全国に響いたのであった。
 ところが、一八八九年(明治二十二年)憲法が発布されると同時に、人民の政治的な自由は、それによって基礎づけられてより活溌に展開されるべき筈が、却って、圧力を受けるようになった。憲法発布の翌年一八九〇年、大井幸子が自由党に加入することを警察が禁止し、「集会政社法」は、婦人が政治に関する演説を傍聴することさえ感じた。女学校令というものが出来て、女子教育の普及を計ると云われたのは一八九九年(明治三十二年)のことであるが、その次の年政府は治安警察法第五条で女子の政治運動を禁止した。
 日本の地平線をちらりと掠めた民主主義の黎明は、こうして短い歴史を終った。そして近代国家としての日本は、軽工業の労働の裡に青春を消耗しつくす貧困、無智な婦人の労力を土台にして、第一次欧州大戦迄膨張をつづけて来たのであった。
 第一次大戦終了の後、漸々《ようよう》新婦人協会が治安警察法第五条の改正を議会に請願し、世界の社会情勢に押されて一九二二年(大正十一年)その改正建議案は貴衆両院を通過したが、その三年後には当時の内閣が、婦人公民権に対してさえ不許可を声明したのであった。昭和五年と云えば、つい先頃のことだが、その年の全国町村長会議は、婦人公民権案反対を決議した。翌六年満州事変が始ってから、あらゆる婦人参政権獲得に関する運動は、軍事目的のために圧倒され、婦選案などは議会にとり上げられさえもしなくなって来た。その頃から、本年八月迄、十四年の間、日本の婦人運動は辛うじて母子保護法を通過させたのみで、炭鉱業者が戦時必需の名目で婦人の坑内深夜業復活を要求したのに対し、何の防衛力ともなり得なかった。婦人の政治参加の問題どころか、戦争に熱中した政府は戦争に対する人民の批判や疑問を封鎖するために、近衛首相を主唱者として、政党を解消させ、翼賛政治会というものにして、議会そのものの機能を奪った。婦人運動の各名流たちは、「精神総動員」に参加して、戦時国債や貯金の誘説のほかに働き、その名声は、戦争の進行につれて益々被いがたくなって来た国内の生活崩壊の事態を、あれやこれやと彌縫《びほう》するためにだけ利用されるという惨めな
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