状態に陥ったのであった。
 今日、人民全体が既成の「政治」に対しては懐疑的であるし、監視的なこころもちを抱いている。それは、本当に当然なことではなかろうか。今日の饑餓と社会生活全面の破綻をもたらした戦争について、人民を其処へ追い込むまいと献身し、わが身を犠牲とした代議士が、一人でも在っただろうか。只今開催中の臨時議会は、戦争犯罪人の摘発に脅かされて、新聞はおのずから諷刺的に彼等の恐慌を語っている。社会生活の破壊がもたらす様々な辛苦を、家庭で婦人は自身の皸《あかぎれ》のきれた手によって知っている。婦人の参政権どころか、「食べることの方が忙しい」と反撥する気分を、ひとくちに、日本婦人の無智とばかり見るのは皮相の観察であると思う。「政治」が、今まで何をしてくれたのか、という鋭い感情がその底を貫いて走っている。結局頼れるものではなかったではないか、そのような「政治」に、何を今更、この忙しいのに、というボイコットが示されているのである。
「食べることの方が忙しい」という表現の心理を辿れば、刻下の逼迫は人民がみんな自分たちで何とかやりくって行かなければならないのではないか、という公憤に立っているとも見られるのである。この一事をみても、私たちは、全く自然で正しい政治というものの理解の、つい扉の外にまで迫って来ている。過去の「政治」には目をくれたくない程、生活の実情によって前進させられているのだから、その感情の奥底にある一つの太い流れ、「何から何までどうせ自分たちでやって行かなければならないのだから」という思いを、屈托した不平の呟きとせずこの際、それを条理をもって整理して見てはどうだろう。それが必然だからこそ、自分たちでやって行くに適当した社会的な方法を見出さなければならないという一歩の前進がそんなに不可能なことであろうか。
 食物の問題をひとまかせで暮している一軒の家もない。それが実際である。少しまかせて頼ってみたらば、忽ち東京では甘藷一貫目が五円五十銭となってしまった。
 自分たちでやっている以上、そういう人々が相談して、最も合理的な方法、村と都会との間の生活必需品の交換として、農村生産物と工業生産物との交流を、組織的に円滑にゆくようにしたらば、どうだろうかと考えてみる。すると、その一つが環となって、夥しい問題が私たちの眼前に浮び上って来るのである。日本の農村の生産は現在のまま
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