いうものが、文学の上で多くのものを語る因子となって来ている。そのこととして、これはもとよりわるいことでないし、一種の政治性で文学が吹きまくられ一律化されようとした危険のあったとき、それは必然に作家の文学というものへの本能から生じた文学の成長を護る態度であった。
だが、生活の実感、生ける姿というものはどういうものなのだろうか。
私はよく思うのだが、例えば、現代の日本の生活感情・文学の実感のなかで、今日現実に多くの人々が心に抱いて生きている思意的な感情というものは、どう生かされ描き出され人生に評価されているであろうか、と。日本の今日の文学は、人間感情のリアリティーとして思意的な感情というものを所謂《いわゆる》理性とか理知とかいう古風な形式にしたがった心理の分類によらぬ情緒そのもののリズムとして、情感として、どこまで承認し且それを描き出しているであろうか、と。
これは明日への文学の課題としても面白いところではないかと考えられる。
現代の日本の文学へは、行動の感覚と未だ区分されていない程度のものとして意力的な感情が少くない分量でもち込まれて来ている。それは、或る場面での実感の肯定として
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