現れて来ている。思意的な生活感情は、そのような実感の吟味から表現されるとともに、あらゆる行動を行動のなかで消してしまわずそれを人生の歴史のうちに、生活の集積としてもたらして来る力となる種類のものである。
アランの言葉と云うと、その思意的な情感がうけとられ、評価され、国産であると思意的な人間感情そのものの存在が理知と一つにされたりリアリティーが疑われるというようなことがあれば、そこにはやはり今日の日本の文学、或は作家の心というものが考えられるわけではなかろうか。自然主義の時代からからんで来ているそういう思意的な感情の発育の不完全さは一般の社会生活のありようと密接な歴史をともにしているものであり、そういう環境の中でおのずから我々の思意的な感情も今日にあって猶粗末なものであり、低いものであろうということも考えざるを得ない。
日本小説の性格形成の過程と西洋的なのとは根本的に相異があると武田氏が云われるとき、私の心には、それに連関する一つの事実として以上のようなことが浮んだのであった。そして、そのことから武田氏の結論をそれなり肯定するよりも、日本の小説性格形成の過程そのもののうちに既にあ
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