実に肉迫して行ってそこにあるものをそれなり描き出すことで、現代のあるがままの姿そのものに語らしめようという気持が基調となっていたと思う。現実の複雑な力のきつさに芸術精神が圧倒される徴候がまだ目新しいものとして感じられていた当時、西鶴の名とともに云われたこの散文精神ということは、のしかかって来る現実に我からまびれて行こう、そしてそこから何かを再現しようという意味で、文学上、一つの意気の示されたものであった。
しかしながら、散文精神の発足にやはり時代のかげが落ちていて、芸術が現実へ働きかけてゆく面からそれが云われず、どちらかと云うと、現実の反映としての小説をより見たことは、散文精神が、市井風俗小説を多産するに至ったことで裏づけられている。
先達てうち、再び散文精神ということがとりあげられた。それは要するにその点の再吟味であり、散文精神が今日の文学の受動性の枠づけとならぬよう、文学のリアリティーを風俗小説の範囲にとじこめぬよう、そのことが論ぜられたのであったと思われる。
この二三年来、各作家はめいめいの個人の生きかたというものに、これ迄とちがった腰の据えかたをしており、そこでの実感と
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