犬三態
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)甃《いしだたみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三九年十―十一月〕
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景清
この夏、弟の家へ遊びに行って、甃《いしだたみ》のようになっているところの籐椅子で涼もうとしていたら、細竹が繁り放題な庭の隅から、大きな茶色の犬が一匹首から荒繩の切れっぱしをたらしてそれを地べたへ引ずりながら、のそり、のそりと出て来た。ひどく人間を警戒していて、眼と体のあらゆる感覚を集めてあたりの空気に触れてみてから、脚をのそり、のそり運ばせて来る、そんな工合でだんだん此方へ近づいて来た。甃のところまで来ると、人間が用心して物を見る時のとおり眉根の辺を動かす表情で此方を見て、害心のないのを感じたらしくそこへ坐った。それでもまだ視線は人間から決して離そうとしない。
この犬、どっかから逃げて来たんだって。小さい男の子が、そんなことを云いながら、せんべを犬の方へ投げてやった。歯音をカリカリ立ててすぐ喰べた。ひどくおなかすかしているの。というのは本当らしい。
人間が椅子の上でちょいと体を動かしても、三四間先の地べたにいるその犬はすぐ反応して神経を亢て、緊張した。犬はやがてその辺を、さっきあっちから出て来たとおりの人間を意識した態度で少時歩いたが、元のところへ戻って来て再び腰をおろした。
暑い暮れ方の静かな庭の中で、その若くない犬の姿は心を惹きつけるものをもっていた。全身に力闘の疲労のあとが感じられ、人間一般を明らかに敵と感じている。
現在おかれている有様は受け身の警戒の形なのだが、その犬の心としては主張するところをもっていて、犬の身になってみれば何となしそれが尤もでありそうな、そういう表情が、毛のささくれた穢れた体に漲っている。敵意に充ちているけれども卑屈な表情はちっともないのである。
長いこと黙って甃のところからその犬と向いあって坐っている内に、芝居の景清を思い出した。自分から俺は悪七兵衛景清と名のって、髪を乱して、妻子にわざとむごい言葉を与えて、自らを敵意のうちに破る景清の姿と、その若くない荒繩をひきずった犬の姿とには、何か印象のなかで通じるものをもっている。
おい、お前は景清のようだよ。知ってるかい。狂犬ではないのだ。何かやってひどくいじめられて、首輪のところからつながれていたのを必死に切って逃げて来ているので、ずるずる地面を引ずる荒繩の先は藁のようにそそけ立ってしまっているのであった。
景清は、それからずっとその庭にいついた。日中は樹の間の奥にいつまでも寝そべっていた。そこからは廊下や座敷で動いている人間のいろんな姿を見ることが出来た。余り人の行かない庭石のところに鉢を出して、飯をおいてある。
そのうち防空演習がはじまった。サイレンが何度も気味わるく太く長く空をふるわして鳴りわたる。
すると、一秒ほどおくれて、その犬がきっと遠吠えをはじめた。サイレンの音よりちょっと高いだけで、終るのも、終りに近づいて音程の下ってゆく調子も、そっくりそのままに連れて、朝でも、夜でもサイレンの鳴る毎に吠え、人間はサイレンばかりをきくのとは又ちがった感情でその遠吠えを聴いているのであった。
いくらか犬の相貌がやわらいで秋が近づいた。今度は蚤を掻く音が高くきこえるようになった。見ているとそれほどでないのに、姿の見えない離れたところできくと、それは大きい凄じい掻き音である。それでもまだ人は近づけず、景清らしく秋の日に照されている。
黒子だらけの顔
いま住んでいる家で二階の南縁に立つと、幾重か屋根瓦の波の彼方に八年ばかり前にいた家の屋根が見える。その家も南向きで、こちらも南があいているから、ひょっとした折、元の家の二階の裏側の一部を眺める工合になっている。そこには目じるしのように一本のヒマラヤ松が聳えている。
その家に住む前には、同じ高台のつづきではあるがもっとずっと女子大よりの処に暮していたことがあった。隣の奥さんが女のおくれ毛止めを発明したとかで、門には石柱が立っているその家の庭の方では絶えずモーターの音がしているし、エナメルの匂いが苦しく流れて来た。
どの家へ移った原因にも、みんな夫々の生活の時代が語られているのだけれど、その老松町の家に暮した時分、忘られない犬のことがある。
音羽の通りへ出るに、大塚警察の横のひろい坂をよく通った。もう十四五年にもなるから、代が変っているかもしれないが、その坂の下り口の右側に、一軒門構えの家があった。坂の中途の家というのは何となく陰気なものだ。そこも門から八ツ手などの植った玄関までだらだら下りになっていて、横手に見える玄関の格子はいつもし
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