物をいう人々の脳裡のどこかに、やはり結婚はまじめだがと、その前提の感情は別個のものとして、低くおとしめて見る癖がのこされていて、いきなり結婚、子供と素朴に出されているのだと思う。
 実際の場合として、産め、殖やせという標語をそれだけの範囲でうけて、互に結婚して、偶然にも子供のもてない良人の体質であったとき、その女性はどうするのだろう。産み、殖す。それを目的として結婚したのに、その中心が失われたとすれば、もうその結婚は意味のないものとして、解体してしまうだろうか。そういう生理の条件であれば、愛着の心なんかは一つの感傷として踏みこえて、別の、子供をもてる男のひとをさがしてゆくのが自然な心の流れかただというのだろうか。
 もし人の心がいつもそうゆくものならば、物事はむしろ簡単だろうと思う。ところが、そうは行かないこともある。子供が持てないとわかって、しかも互の愛着は深まさって、美しい人生を社会のために何か別の形で提供して行きたいと願う心で、離れがたい場合も起ろう。そのときその一組の男女の生活の健全なささえは、どこに見出されるだろう。人間としての理解と協力のよろこびが持てなくては、その生活はな
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