して自分たちでこそつくり出して行かなければならない。結婚生活における人間としての互の理解と協力の大切さは、私たちの生活の現実がそういうものだからこそいわれるのであると思う。幸福な結婚生活というものの真の姿は、その夫婦がどんな不幸にも困難にもめぐり合わないで生涯をすごしたなどという、ほとんど実際にあり得ない空想のうちにさぐらるべきではなくて、おびただしいそれぞれの困難な辛苦の間で二人がどんなに互の評価と慰めと励しとで生活をおしすすめて行ったかという、その動きの真実の中にこそある。
ひところの日本にあった、結婚はしたくはないが、子供は欲しいという表現は、ジュヌヴィエヴが、俗人でていさいやの父親というものに代表されているフランス社会の保守の習俗にぶっつけて、その面皮をはぐことで人間の真実の生活の顔を見ようと欲した激烈な感情とは、またおのずから質の異ったものであったと思える。
女性として男性に結ばれてゆく自然さを自分に肯定しようとする積極の面と、そのことが習俗的にもたらす形体が与える負担のうけがい難さとの間に生じる感情の分裂が、結婚はしたくないが子供は欲しいといういっそう矛盾した表現に托されたのであったと思う。そこには、いかにもくすぶられた向上心と、女のある意味での消極なすねかたがあると思われる。何故なら、結婚はしたくないが子供は欲しいという表現は、半面で男性の在来のものの考えようをこばみながら、その半面ではいっそう無防衛に男に対する自分の女としての性をひらいているわけであり、そのことで何か女性の新しい積極さがあるようによそおいながら、本質は、そういう目新しさにひかれる男性の感情をあやしているのであるから。
本当の社会生活の成長という点で、この表現は何も解決する力は持っていないものであった。
結婚はしたくないが子供は欲しい、という風な一見激烈そうな女性の抗議の擬態と、子供を持つために結婚はするものだ、という一見堅実そうな昔ながらの態度とが、その実は背中合わせにくっついていて、どちらも私たち人間の生の意味は一歩から一歩へと成長をうけつがれるべきもので、自身の世代にどこまでそれを達成させたかということこそ、生涯の課題であることをまともにしっかりつかんでいない女性の低さやもろさから生れているのは、何と考えさせられることだろう。
私たちの歴史は、親から子供が出て来ていると
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