逆立ちの公・私
宮本百合子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)捨科白《すてぜりふ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四六年二・三月〕
−−

 先ごろ、ある婦人雑誌で、婦人の公的生活、私的生活という話題で、座談会を催す計画があったようにきいた。何かの都合で、それは実現されなかった。しかし、その話をきいたとき、わたしは、それは面白い話題のつかみかただと思った。提案者の意企は、どういうところにあったか知らないけれども、今日の日本の現実と向い合ってこのテーマが出て来るからには、まさか、婦人の参政権に伴って、婦人の日常性の中で、公的生活と、私的生活とは、どう調和するか、或は、どう調和させて行くべきかというような、官僚じみた視点に立って出されたのではないであろう。
 真にこのテーマが、今のわたし達の生きている現実の中で出された場合、先ず、今日の公的生活とは何であり、私的生活とは何であるか、そこから新しく見直されてゆかなければならない状況にある。そこから課題が展開されて、はじめて、生きた話となってゆくのではなかろうか。わたしは、そう考えた。
 公的生活、私的生活ときいたとき、心に閃いたのは、現代の日本人民の生活では、実質的に、その二つが互に入れ替ってしまっている、という事実であった。私的生活という名で区分されていた日々の生活の諸面におこっているあらゆる問題のすべては公的な性質を帯びている。そして、習慣的に公的と思われて来た社会活動の面に夥しい私的生活がまぎれ込んで来ている。つまり、今日の日本では、二つのものが、さかさまになっているのではあるまいか。
 明治からの日本の文化史をみれば、われら日本の民草というものが、ただの一度もヨーロッパ諸国の市民たちが経過した市民社会の生活経験というものをもっていないことは、明かな事実である。長い長い封建の時代、命さえも自分に属するものではなく、武士は家禄によって領主に生殺与奪の権をもたれていたし、人民百姓は、手討ちという制度の下におかれていた。森鴎外の「阿部一族」の悲劇が、殉死のいきさつをめぐっての武士間の生存闘争であることに、二重の悲劇の意味がふくまれるのである。
 最近十数年間、日本人は「滅私」という標語で統一しようとされて来た。近代社会の必然として、いくらかは日本にも生れた合理主義的な傾向、他人の考えが自分の考えと違うからと云ってそれは当り前のことと理解する自由主義の傾向、更に、歴史の進展は抑え難い必然であるとみて、その動因を社会の生産諸関係の推移、その矛盾のうちに見ようとする民主的傾向、それらは、本来において、社会に対する認識の表現であるから、まぎれもなく公的なものであるにかかわらず、「滅すべき私」の範疇に入れられることとなった。そして、「日本のため」或は「天皇のため」にということが、すべての私を滅した一億人民の公的な生存意義とされたのであった。
 日本の個人主義は、よきにつけ、あしきにつけ、未発達のまま、第二次世界大戦、太平洋戦争に突入してしまった。そのため、一個人としての自主的な判断力が、どの個人の能力の中にあっても薄弱であった。薄弱な客観的判断力を、津浪のような軍事的強権で押し流して、その人々の考える「公的」なものの中へ、人民生活の全面を集注させたのであった。
 世界連帯のひろやかな展望から見て、旧い領土問題から出発した「日本のため」という観念が、どんなに狭い限界をもつのであるか、今日判断をあやまるものはないと思う。世界人類の福祉という公的な観念と対比すれば、日本の軍閥の意味した「日本のため」が、私的な性質を帯びたものであったことを、今日否定する人はないであろう。
 第一歩で、とりちがえて提出された、日本における公私の逆立ちは、戦争が進むにつれ次第に深刻な具体性をもって来た。
 例えば、遠い大洋をへだてたあちこちの島々に、守備としてのこされた一団の兵士たちは、どういう経験をしただろう。食糧事情で恐るべき経験をしている。しかし、ただ、食うものがない辛苦をしのいだだけであったなら、それがどんなに酷かったにしろこれらの不幸な兵士たちは、まだ、人間として生きてゆく精髄的なよりどころは失わないですんだであろう。食糧事情に絡んで、或る場所では、人々をおどろかした残忍な暴力がふるわれた。そして、それは、日本兵の悪虐として語られた。だが、彼等が、食うものがないからと云って、子供に対して非人間的な残虐に立ち到った、その心理の根底には、単なる飢えにたけりたったとはちがった、何か、云うに云えない心の廃墟があったのではなかろうか。つまりより飢えなかったとき、既に畜生道に陥る精神の破局が用意されていたのではなかったろうか。
 私どもは、何々
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング