ろか、ままよ千石、君とねよと、権利ずくな大名の恋をはねつけ、町人世界の意気立ての典型と仰がれた高尾も、女としての自由な選択は、自分を買って金をつむものの間にだけ許された。つまれた金は高尾のものではなかった。廓の経営者、お店の旦那のものであった。
 その封建的な遊廓が、日本になくなった。そして、街の女があふれ出した。
 封建的社会に遊廓という形があり、よりすすんだ資本主義の社会に、もつものともたざるものとの溝に咲く夜の花のあることは、ヨーロッパも同じである。経済矛盾の大きい社会ほど、売淫は多様広汎になって来る。ベルリンに、日本に、売笑のあらゆる形態が生れ出ていることは、ファシズムの残忍非道な生活破壊の干潟の光景である。独善的に民族の優越性や民族文化を誇張したファシズム治下の国々が、ほかならぬその母胎である女性の性を、売淫にさらしていることはわたしどもになにを語る事実であるだろうか。
 ところが、昨今の日本の文化は、自国の社会生活の破壊の色どりである売笑現象に対して、奇妙に歪んだ態度で向っている。映画に軽演劇に登場する夜の女の英雄扱いはどうだろう。ある婦人雑誌では某作家が横浜の特殊な病院へ入院中の夜の娘たちを訪問して座談会をしている。よこずわりの娘たちは某作家から、あなたがたは第一線の花形です、とたたえられている。せめて毒のない花になってほしい、とはげまされている。それに答える娘たちの物語は、片仮名を二つかさねた名でよばれるこれらの娘たちの生活が、どんな現実をもっているかということを赤裸々に告げた。第一、彼女たちは、めいめいがはったりでいっているほどの金を儲けてはいない。第二に、決して自由気ままな生活ではなくて、その病院へ入れられるときも、お湯のかえりをそのままつれて来られたり、台所からつれて来られたりしている。そして、第三に、よむものの心をうつことは、商業的な文化の上では猟奇のヒロインのように描き出される彼女たちが、電車にのると、パン助野郎、歩いて行け、とののしられたりするということである。娘たちは、真赤にルージュをぬった唇から、なるたけ歩くようにはしているけれど、わたしたちだって遠いところは乗りたいんです、と訴えている。
 売笑婦が、電車に乗るのは生意気だといってののしられる国が、日本のほかのどこにあるだろう。なるたけ歩くけれど、遠いところは乗りたいという、いじらし
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