い混雑した向島の堤を行った。家に帰る沢山の空馬力、自転車、労働者が照明の不充分な塵っぽい堤を陸続、互に先を越そうとしながらせっかちに通る。白鬚の渡場への下り口にさしかかると、四辺の光景は強烈に廃頽的になった。石ころ道の片側にはぎっしり曖昧な食物店などが引歪んだ屋体を並べている。前は河につづく一面の沼だ。黒い不潔極まる水面から黒い四角な箱みたいな工場が浮島のように見える。枯木が一本どうしたわけかその工場の横に突立っている。往来近いところは長い乱れた葦にかくされているが、向う側の小店の人間が捨てる必要のある総ての物――錆腐った鍋、古下駄から魚類の臓腑までをこの沼に投げ込むと見えアセチリン瓦斯の匂いに混って嘔吐を催させる悪臭が漲っている。
 蒸気の艫《とも》へ、三人かたまって河風にふかれた。空はもう墨を流したようだ。水神の方角で大きい稲妻がする。その下に白鬚橋が長く反を打って廻燈籠の絵のようであった。川面にぽつりぽつり赤い燈、緑色の灯。櫓の音。東京を留守にしようとする網野さんは感情をもって此等の夜景を眺めているらしかった。
「――元よくこの辺翔んでいた――都鳥でしたっけか、白い大っきい鳥――
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