たが漠然としている。
 ヨーロッパでも、婦人の指揮者は二人か三人しかいないそうである。そういう点からも私はカルメン夫人の指揮から受けた印象でいろいろ女の芸術と生活とを考えさせられた。
 カルメン夫人はいかにも人柄のよい、教養のあるひとらしく、『婦人公論』などに書いた文章などよむと、むしろ音楽を文学的に、哲学的に感じすぎているようなところさえうかがわれる。夫人は、その教養でワインガルトナーが芸術家として到達しているところの価値を十分に理解しているのであろう。技術の高さをも評価しているのであろう。だが気質や年齢やの相異から技術的にもつべき特質というものもワインガルトナーと夫人の芸術家としての生活は、教養で音楽を深く理解する範囲では今日でもすでに傑れているに相異ないが、自分の生活で音をつかんで来るという、人間生活の風雨と芸術の疾風にさらされた味は感じられないのである。
 師匠のいらない文学と音楽とはちがうから、卓抜な先生を良人としているカルメン夫人は一面最もよい環境にいるわけである。ところが、この条件が却って夫人の持ちものを未熟なままにふっきらせ切らない。完成した形が外から筺をはめているので
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