、ある作品についても各人各様の批評が活溌におこなわれている。プロレタリア作家とブルジョア作家との本質的なちがいがぼやけて、リアリズムの解釈にもある種の混乱が認められるのが、今日の現実なのである。
 プロレタリア文学に結ばれている者の間に、戸坂氏の書かれたように文学批評とは別に、それを批評するもっと客観的な「本当の批評」の出現を待望するのでなく、文学批評そのものに、新たな、発展的な客観性の確立を求める気分の醸成されていることは、見のがせないことである。その新しい動力となり得る気分を理解し、作品活動の中に正当に導き出して行くことこそ、「現実そのものから現実を描き」批判する方法を学ぶことをたてまえとする社会主義的リアリズムの任務ではなかろうか。
 従来私が、自分の書くものについての批評に対して、多く沈黙を守っていたのには、それぞれの時代によってそれぞれ理由があった。
 私がブルジョア作家として仕事をしていた頃は、ブルジョア文壇の当然の性質として批評は主観的な印象批評が多かった。私は、個人的なものの考え方で、すべての毀誉褒貶《きよほうへん》を皆自分のこやしとして、自分が正しいと思う方へひたすら
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