でもかまわず作家よ、あばれたければうんとあばれろという風にだけ理解していない。プロレタリア文学の作品が多様化すればするほど、ますます確乎とした階級的基準にたって実にいきいきと、明快に、健康に、それぞれの作品の社会的意味を階級の歴史の発展との連関において積極的にせんめいする批評の必要が増して来ていることを痛感するのである。
戸坂潤氏が先頃匿名批評について書いた小論の中で、文学批評のことにも少しふれている。その中に「最近のいわゆる文芸批評に権威がないということは」「別に文学作品に権威が出て」来たことを意味するのでなくて、「かえって文芸批評などに見られないような本当の批評が最近世間から盛に要求されているということを知らず知らずの間に物語っているものなのである。」といっている。
戸坂氏の、文芸批評でない本当の批評というのは何のことであろうか。戸坂氏は、それによっていろいろな作品批評をもさらに批判し得る大きい客観的規準をもった文明批評の出現の要求を意味しているのである。
また、七月の『文学評論』の巻頭言には、「批評における図式主義の再発を防ぐ」という論文があって私の興味をひいた。
この論文では、創作方法の問題を再び「現実認識の一般方法の問題」「唯物弁証法」に「還元しきる傾向」が最近若い批評家の中にあり、そのような原稿が集っていることについて警告が発せられている。それは正しいと思う。しかし、私はこの巻頭言において、なぜ再びそのような要求、傾向が、特に批評の面において、しかも若い批評家の間から生じているかということの社会的階級的必然性がちっともとりあげられておらず、解剖されないで警告ばかりが発せられたことをむしろ不思議と感じたのであった。
巻頭言の筆者は批評の方法こそ唯物弁証法に導かれねばならぬといっているのであるから、それを実際問題としてあてはめてみると、たとえばそういう図式主義批評の傾向が再び起って来たような場合、くだらぬことだけいい去らず、その要求が若い批評家の間に起るに至った社会的根源、要求の背景にまでふれて、客観的に批評されていいのではなかろうか。
戸坂氏などは、文芸批評というものが多く主観的であるという現状のままを認容した上で、それより客観性、科学性において立ちまさったものとして別個に文明批評の出現をとりあげているのである。
それとは異ってプロレタリア文
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