独自的な性質をいかし個々の作品に即した方法で討究されるところに来ている。

 さて、私はここで話題を転じ、そもそも文学作品の批評というものは、本来的にいって誰のためにされるべきものであるかということについては、はっきりさせておきたいと思う。
 私は日頃、文学作品に対する批評は、読者のためになされるものであると思っている。したがって批評する者の任務は、ある一つの作品、あるいは一つらなりの文学作品について、自分の主観から好きとかきらいとかを表明するところにあるのではなくて、ある作品を生んだ作家が意識しているといないとにかかわらず必ず代表している社会的な要求を、その作品の中でどう形象化しているかという具体的な関係を、創作の内容、形式の統一において、あきらかにして行くところにあると信じている。だから、そういうたてまえの作品批評にあって、相手は特定な個人ではない。その個人が知ってか知らずか代表している社会層が、批評する者にとっての相手であるという訳になる。
 それまで漠然とある小説なら小説を読んでいた人は、その小説に対するそういう批評を見て、はじめて、その小説の社会における客観的な意味を理解する場合があるだろうし、作者自身もまた、それまでは自覚しなかった諸点を、その批評によって自身の社会的な認識の中にとり入れる場合もあるだろう。
 私は、ある一つの批評が、そういう社会的な役割をはたすことが大きければ大きいほどすぐれた批評といい得るのであろうと思っている。同時に、批評が作家にとって役に立つとか立たないとかいうことも、批評そのものが右のような社会的な役割のあきらかなたてまえの上に堂々と行われ、そして、作家自身が自分の作品について書かれる批評は、直接個人としての自分にだけ向っていわれているのでないことを理解した上で初めていい得ることなのだと思う。文学作品批評にあたって、評価の基準が重大な意味をもつゆえんである。
 創作方法における社会主義的リアリズムの問題が提起されてから、確にプロレタリア文学の社会的包括力はひろげられ豊富にされた。さまざまな段階のさまざまな作家がそれぞれの方法で現実をとらえ、それぞれの形式で芸術化す可能が増大した。これは、一つのうれしい辛苦のたまものである。しかしながら私は、林君が近頃新聞に書いていたように、今は作家の少壮放蕩時代[#「少壮放蕩時代」に傍点]だ、何
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