私の書いた「一連の非プロレタリア的作品」という作品批評と感想とをとりまぜた論文めいたものが、その「やっつけ主義」批評ののろうべき見本であるかのように、紙つぶてをなげつけられた。
今、その時分のことを思い起すと、私は実にしんしんたる興味を覚える。当時の情勢を背景としてついにもだすにたえなかった非力な私自身の姿や、また、自身のプロレタリア作家としての階級的な不安や動揺のすべてを私に対する罵倒の中で燃しつくそうとでもするような熱烈さでかたまり飛びかかって来た人々の心持が、きょうになってまざまざと理解される。
発展する階級の複雑多岐な歴史とのつながりにおいて、自分をふくむこれら一団の作家群のなまなましい行状記を眺め直すと、私はある創作的衝動を心に感じるほどである。さまざまの困難な時期を経て何年か後に、私はもちろんのこと当時の人々はいかなる角度で新たな歴史の上に登場するであろうか。
私のその論文めいたものは、作家同盟の機関誌に発表されたものであったから、世間一般の文学愛好者たちや、そういう雑誌をみなかったブルジョア作家たちの間で実物を読んだひとはきわめて少なかっただろうと思う。面白いことには、そういう実際の事情にもかかわらず、その文章に対する反駁の意味をもつ文章などだけは、それを書いた人々によって機関誌以外のいろいろな新聞、雑誌などに送られた。そういうやりかた一事を冷静に観察するだけでも、当時のプロレタリア文学運動の内にあった一つの傾向の性質を跡づけ得るような状態であった。
私は、思いもかけなかったつむじ風[#「つむじ風」に傍点]に捲きこまれ、しばらくの間は足元をさらわれずに立っているのがやっとのことであった。
しばらく時が経って、私は自分の書いたものにふくまれていた誤謬――おのおのの作家が現実の問題として制約を受けているさまざまの意識的段階を無視して、定式化された規範で批判し、実際の結果としてはその作家が階級社会の中で負うている進歩的役割を抹殺するようなことになってしまった誤りをはっきり理解した。
今日になっては、私自身至っておそいテンポながら文学の実践においてもすでにより発達した水準に到達しているし、プロレタリア文学運動において絶えず具体的に高められ強められてゆかなければならない芸術における階級性の問題も、今は、過去の成果と教訓によってよかれあしかれ、文学の
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