近頃の感想
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)毀誉褒貶《きよほうへん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)つむじ風[#「つむじ風」に傍点]に捲きこまれ、
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 考えて見ると、私は今日まで作家として相当長い仕事の間に、自分の作品または生活について書かれるいろいろな批評などに対して、文章をもって答えたことは、ごく稀であった。
 自分としてその批評に賛成であった場合も不賛成であった場合も、多く黙っていた。
 それには、後でのべようと思う一二の理由があったのであるが、この頃、私は従来までの自分のそういう態度についていささか考え直すようになって来た。
 その間接の原因となるものは、一昨年の末から去年にかけてプロレタリア作家の間を荒した批評嫌悪症のさまざまの要因が、今はプロレタリア文学運動の歴史の鏡に照らされて相当はっきり私にも見えて来たことと、そこから汲みとったいろいろの教訓をもって今日自分のまわりを見まわすと、おのずから自分の態度についても考えが新にされる点があるからである。
「批評などというものは、作家を大して育てる役には立たない。」そういうことは昔から、ブルジョア作家によっていわれた。ひとの書いたものを、後からいいとか悪いとかいうことはたやすいことだ。そんなら自分で書いて見ろ。もっとも卑俗なわるい場合はその程度にまで行った。
 プロレタリア作家の間で一時同じようなことがいわれるようになったのには、また別の理由があったと思う。今日の発展段階に立って過去の作家同盟の活動を振りかえった時、すべての人が認めざるを得ないある規範主義が、作品批評の場合にも現れた。
 それに対してプロレタリア作家の大部分が、それぞれ自身の発展的傾向、あるいは消極的な傾向にしたがって、その規範主義に反撥した。ところが、その批評の規範主義に対する反撥は、複雑な関係で当時の作家同盟という組織への反撥をふくむものであったので、反撥の表現は、自然ひどく個人的な形態をとり、かつ感情的であった。その頃「やっつけ主義」の批評という言葉がはやった。そんな「やっつけ主義」で作家を萎縮させる批評なんぞ蹴とばせ! 作家は何でも作品を書けばいいんだ。そういう声がブルジョア文壇で叫ばれていた「文芸復興」の呼び声に呼応してさかんにこだました。
 その時分、
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