するようにだきおこした。夢と現のさかえに居た人はびっくりして目をあけると、美くしいかおにほのかな紅を染めて自分の体をしっかりかかえて居る。身をひいてどけようとしたけれども、その手をゆるめないでしっかりかかえたまんまで、
「御免、ほんとうに長い間いろいろ世話をやかせて」
声ははっきりとして目はおだやかになって居る。
紅はハッとした。「若しか若しか、今まで変で有ったのは、わざとして居たのではあるまいか」おどろきとよろこびにふるえながら、
「若様、御わかりあそばしますか、御気はたしかでございますか」
「わかりますかって? わかってるとも、美くしくてつれなくて――私は気がたしかときくの? たしかともたしかとも只私はかなしさに、なさけなさに……きれいなところは有るものをネエ」
やっぱり正気にかえったのではなかった。
「ほんとうにネエ、私はまぼしいようなかがやきのある藻の林の中に身をしずめてじっとして居たくなってしまった。そしたら、ネエ、こんな悲しいことや辛いことは有るまいもの」
しみじみと正気の人の云うように云って女をだいたままたおれてしまった。女はあわてて身をもがきながら、
「御はなし下さいませ、御はなしはどんなにでもうかがいましょうから」
おだやかに光君は手をはなした。
「ネ、どうぞ私のことはいつまでも忘れないで御呉れ、ソラ、鳥がとぶ、雲がとぶ、心も――」
光君のいつになくおっとりした口のききぶりや、しみじみとした口つきに紅はもしや何か変ったことはないだろうかとそう思われた。
「忘れはいたしませんとも、死にましても、どんなことがあっても忘れなんかいたしますもんか」
光君はこのことをきいて安心したように立つと、又人形をだいてはなされないようにじっとそれをだきしめたまま、日は暮れてしまった。灯のかげに光君と二人の女は何も云わずに、何かに見込まれたように、またたく灯かげを見つめて居た。
「ネー若し、今日は若様はいつになくしみじみとね、涙の出るようなことばかりおっしゃって御いででしたの、もうほんとうにネー」
「マアそうでしたか、どうなさったんでしょうねエ。ほんとに御なおりになって下されば、私達もほんとうにどんなにうれしいか知れないのにネエ、やっぱり悪い神様がいたずらをなさっていらっしゃるんでしょうよ」
乳母はこんなことをそぷ[#「ぷ」に「(ママ)」の注記]を向きながら云って居る。紅は何となく眠気がさして来た。頭ばかり用《つか》って眠る時間の少いために、うつむいたまま形をくずさないでしずかに眠って居る。光君は人形を抱いたままだまって目をつぶって居る。乳母はだまって光君の様子を見つめて居る。
夜は段々更けて行く、いつまで立っても光君は動こうともしない。乳母もいつの間にか眠りたくなった、ついうとうととなってハッと気がついて又首をもたげる、又うとうととなる、又ハッときづく。……
夜明にメッキリ涼しくなった、一番さきに紅はおどろいて目をさました。紅におこされて乳母も、
「有難う、ねまいと思ってもついつかれて居るとほんとうに年甲斐もないことをしてしまって」
乳母は目をさましてから年若な紅におこされたことを大変恥かしいと思ってこんなことを云って髪をかきながら、
「オヤ、いらっしゃいませんよ、若様が。一寸、アラ、大変だ、どうなすったんでしょう」
「エ? 何ですって、若様が――いらっしゃらないんですって?」
「エエ」
「そんなことはないでしょう、だって宵の中にいらっしゃったんですもの」
「ほらごらんなさい、ネ、被衣がぬいであるでしょう。そらもうよっぽど前に御出になったと見えてもうひやっこくなってるんですもの」
「マア、どうしましょう、私が居ねむりをしたばっかりに、ほんとうに相すまないことになってしまって」
「ほんとにネー、どうしましょう。とにかくきいて見ましょう、御きのどくですけれ共ほかのかたの御部屋を、まさか家のそとにはいらっしゃらないでしょうからネー」
「ほんとにそうだといいんですけれ共ネー」
「貴方紫の君さまのところへ、私は大奥様と殿様のところへ行って来ますから、どうぞ」
二人の女は女特有の重い音を立てて右と左に分れて走って行った。
「一寸、どなたかお目ざめでございますか、光君のとこの紅でございます」
うわずった声で大きくよんだので年とった女が、
「オヤ、マアどうなすったんでございます、光君がどうか……?」
「あの若しやここに御邪魔致しては居りませんか、御見えにならないんでございますが――」
「アラ、一寸御待ち下さって――『一寸一寸さっきここの前で何だか悲しいうたをうたっていらっしゃったのは光君だったでしょう』やっぱり。もうずっと前三時ほど前にここの前で細い御声で何か歌を御うたいでございましたが、やがて高い御声で御笑いなさりながらどちらへか御いでになったのでございますよ、マア、それからどちらへ御こしになったかはわかりませんですが」
「そうでございましたか、オオ、どこへいらっしゃったのでございましょう。実はさきほどから一寸二人ともとろりといたしましたらもうどこへか御出になってしまったのでございますもの」
紅は礼を云うのも忘れて東の対にかけもどると、殿も母君も外の人達も御おきになってくらやみの中におどろきとかなしみとにとらわれて立って居る。
「わかりましてす」
紅はたったそれだけ云ったきりで座ってしまって何も云えない。
「どうなすったの、早くおっしゃいよ」
外の女達はすすめるけれ共息ははずむ、自分の罪はせめられる。
「只今紫の君様の御部屋にうかがいましたらもう三時も前にあの御部屋の前で悲しいうたを御うたいでしたが、高笑いを急にあそばしてどこへか行って御しまいあそばしたと云うことで……」
紅はうっつぷしたまんま斯う答えた。
「エ? 紫の君の部屋に行ったって? どうしたんだろう」
母君はふるえた、でもあきらめたような声で云う。人々の頭には雷のように、
「死んでしまった」
と云うことがひらめいた。けれ共各々はなるたけそうでないようにといのって居るけれ共どうしてもそれが思われてならなかった。
いきなり向うの細殿を小供の足音でかけて来るものが有る。うすい着物の上に片っ方だけ袿《うちぎ》をひきかけて走ってきた童は、人々のかおを見ると急にポロポロと涙をこぼして幼いもののだれでもがするようにしゃくり上げてどもってばっかり居る。
「どうおしだ、何があるの、云って御呉れ」
殿はやさしい声でその手を背におく。
「申し上げます、わ……わかさまが……彼の奥の池に紫の君様……の……御お、衣がう、ういて居りますと只今申して来たものがございます……」
「エー? 奥の池に――紫の君の衣が……」
殿のかお色はにわかに変って唇はワナワナとふるえて居る。女の人達はもうそのわけを察してもう声を立ててなきくずおれて居る。
「私達の心で思って居て口に出さないで居た結果がとうとう来た。彼の骨をけずるような悲しみはまだ年の若い情のかったあの人にはしのべなかった、だからまずもののわきまえのないように気が狂ったのだ、それでもまだ苦しいつらいことが有ったと見えて永久に苦しみのない静かな水の底に柔い藻に抱かれてしまったのだろう、秋のつめたい水の中も情ない人の世よりはあたたかいと思ったと見える……人なみよりも勝れて美くしい人は命が短いと云う昔からの定規に彼の人ももれなかった」
殿はさとすようにまた人の世の定まった情ない事をさとすように云い終ってそっと目をとじる、耳のそばでは形のないものが、
「来るべき筈の運命ときまって居たことを今更歎くことは、あんまりおろかすぎる事じゃあないか?」
斯う云うようにきこえた。涙は目からポロポロ頬をつたわって落ちる。散った花のように身をなげ出して声をおしまず女達の泣いて居る間に紅一人は目をとじてうつむきもしずそのはっきりしたかおを蝋のように青くなって気を失ったように身うごきもしない。母君はふるえた声で、
「みんな私の心弱いためにね――ほんとうに大変なことになってしまった。そうわかった時に私が口をきいて早くまとめてしまえばよかったものを、ほんとうに……かんにんして御呉れ」
こんなことを云って母君は今更のように涙をながした。
殿は、みどりの髪をながく水底にわだかまらせて、白いかお、白い手をやわらかい娘のような藻はそっと包んでその間を赤い小老蝦はものめずらしそうに外の世界からフイに来たこの美くしい御客様のまわりをまわる。始め体の上にしんなりと被った紫の君の衣は藻のなびきにういてみどりの藻の上をうす紅の衣がただよって居る、その絵のような又とないものあわれな様子を想像しながら、
「美くしい人にふさわしい涙の多いは果ない最後であった、けれ共今更その骸をさらすのはあんまりむごいことで有る。あのままにしていつまでもそのしずかさをさまさないようにしてあげよう」
涙の中に殿はこれ丈考えたけれ共、母君は只泣くばかりでどうにもしようがなかった。只
「ほんとうにすまないことになった、私のために……乳母も紅もあんなに世話をして呉れたのに、どうぞこの生る甲斐のない母をうらんで御呉れ」
こんなことばかり云っていた。
「□[#「□」に「(一字不明)」の注記]業でございましょう、私の御世話をいたしましたのも若様の御なつき下さいましたのも生れる前から神の定めて御置きになったことでございましょう。私は誰も恨むはずの人はございません、只……只私の呪われた運命を思うのでございます……つくづくと……」
紅は斯う云ってはじめて涙をながした。
「御前行ってね、そう云って御呉れ、池は何にもかまって御呉れでない、するようには私自分で行ってするからとね……あんなに美くしくてやさしかった人をどうして……」
殿は泣きじゃくって居る童に云いつけて向うにやらせた。
涙の止まって気の狂いそうになった母君は何も云わず何とも考えることも出来ないで、ぼんやりとしたかおをして、泣きたおれて居る沢山の美くしい衣の色を見て居る。女達のかおは涙に白粉がはげていたいたしく見えている。
「そんなにおなきでない……あんなに美くしい人をなくしてしまったのは皆私達が悪かったばかりなんだから、ネー、そうお思いじゃあないかい。お前達の涙であの美くしい人の色をあせさせるといけないから――どうぞ」
そう云いながら自分も涙にぬれたかおを袖でかくしながら、
「母様、西の御殿にかえっておやすみあそばせ、あとは私がいい様にとりはからいますからネー」
わきに居る女に目くばせして、
「つれて行ってお上げ」
と云ったので、地味な色とはでな色の二つの着物はさびしいなにかの影を追う様に西の御殿へ細殿をつたって行く、西の御殿の女達は夢からさめた様にそのあとにつづいた。光君の部屋に居た女達は今更とりみだした様を気がついたように入ってしまった。あとにはだまってかなしみのためと絶望のために青白いすごいほど美くしくなった紅が、だまって胸を抱く様にして坐って居る。殿も、そのわきに他の女よりも強いかなしみにとらわれて物狂おしい様な紅の様子を、前からの事に引きくらべてよけいかあいそうにおもわれたのでなぐさめるつもりで、
「気をしっかり持って御呉れ、紅、人の命がはかないものだと云う事、人間と云うものは弱いものだと云うことは御前も前から知って御いでだろう……悲しい事つらい事は人を玉にするみがきだと御思い。御前はまだ若いんだもの、末にどんなに楽しいうれしい時もあるんだからネー、私は口ばかりでなく、心から御前の心のかなしさを同情して居る人の一人なんだからネー」
やさしい思いやりのある声でさとして、殿はマーブルのようにかたくしまった女のかおをのぞき込んだ。
「私はあの人の可愛らしい霊がしずかにやすまって居られる様にしなくてはならないのだからネ、私はこれから池に行って見るから……」
悲しい心にさわる事を気づかう様に云う。
「まことに恐入りますが……私もお連れ下さいませ。御心配には及びませんでございます、もう落つきましてすから」
はっきりとし
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