た口調で落ついて云ったので殿は少しおどろきながら、
「行きたいのなら御いで……だけれ共私にこれ以上かなしい目にはあわせないで御呉れ」
 紅は殿の今いった言葉がその意味以上にようわかった。
「大丈夫でございます」
 シャンとした気丈な様子をしてそのあとにつづいて池に降りた。
 向う岸にならんで居る木の小さく見えるほどの大きさ、まわりの草は此の頃の時候に思い思いの花を開いてみどり色にすんだ水と木々のみどり、うすき、うす紅とまじって桔梗の紫、女郎花の黄、撫子はこの池の底の人をしのばすようにうす紅にほんのりと、夜露にしっとりとぬれてうつむいて居る。
 かおの白い衣の美くしい人達はその中に足元をかくして立った。池の面は人々のかなしみも何にも知らぬがおにしずかにみちて居る。すくい上げられた紫の君の着物はその裾からつゆをしたたらしながらわきの柳の枝にかけられて居る。人達は一まわりズーッと見まわしてから目をつぶった、□□□[#「□□□」に「(三字不明)」の注記]の口からはかすかな祈りのこえがもれて居る。紅は□[#「□」に「(一字不明)」の注記]にぴったりとすわって、深く人よりも大きなことを祈るように目をねむったまま動かなかった。
「このままにして置いて御呉れ、一寸でもの水をさわがせない様にネ……」
 殿はまわりのしずけさをやぶってわきに居る男に云いつけた。
 いつまで立ちつくしても思いはつきないと云うように人達は立ちつくして居る。
「もういったらいいでしょう、きりがないから」
 去りがたい思いをしのびながら殿は云った。
 ことばに二人たち三人立ちして、たいていの人は家に入ったが、紅はまだ坐って居た。殿はこの様子をいぶかって、
「紅は大変かなしんで居て、御らん、あんなにして居る。私はもう去らなければならないけれ共、あとが少し気がかりで居るからものかげから見て居て御呉れ」
 わきに居るまだ若い男に云いつけて、しずかに池の方に会しゃくをして家の中に入った。
 だまって坐って居た紅は足元もあやういように立ち上った。
「ああなんでももうおしまいになってしまった、……私の望も、よろこびも、たのしみも、命までも……」
 しずかにかげのようにあるき出した。物かげの男は池に身を投げはしまいかとそればかりを気にして一足うごくごとに自身も一足ずつうごいて居る。やがて足元を定めて紅はキチンとしまったかおをして家の方にあるき去った。物かげの小男はなんとなくあっけないような心持でそのあとにつづいた。
 前にもました、重くるしいかなしい心持は家の中にみなぎって東の対の女達が光君のものために同じような黒い衣物を着て居るのはよけいにいたいたしかった。
 その日の晩、東の対の光君の御部屋からと云って童が一つしっかりと封じた文をもって来た。何かといぶかりながら上包をとると、
「私からうちつけに文などをさしあげましてまことに恐入りますが、私の心に同情下さいますなら御開き下さいませ、もしそうでございませんならこのまま御すて下さいませ」
と紅の手でこまかくうす墨でかいてあった。殿は好奇心にかられて中を開いた。細かく長く書いて有る、はじから順々によんで行くとこんなことが書いてあった。
「どうぞ御ゆるし下さいませこんな失礼をいたします事を。私は今までどう云う心持で暮して居ったかと申す事を御はなしいたそうと思いたちましたので……何故と云うわけは御きき下さいませんように。私はどんな身分で今までどんなかなしい事に出合ったかと申すことも御存じでいらっしゃいます。私は……まことに何な事でございますが、光君様を御したい申して居りました。けれ共、私は、その事を表にあらわしてよい事かわるい事かと申すことは、幸父からうけついだ理性ではんだんする事が出来ましてす。それで私達は今まで一寸でもそんな事を気をつけられる事もございませんでしたし又気取られるような事もいたしませんでした。その内光君様が西の対の君さまのところへ御通いあそばす様に御なりになりましてからも、その始っから私は光君の御望の叶わないと申すことは存じて居りましたけれ共、私は自分の心にひきくらべてその御苦しさを御察し申上げて二人の中をどうにでもしてと存じて西の対へもいろいろと云ってやりました。私は気の狂いそうにかなしい中に人よりも一寸でもまさった事をすると申すのがなぐさめで居りました。紫の君さまの御心づよさは光君の御心を狂わせてしまいました、私は自分の貴い玉にきずがついたように感じました。
 毎日、毎日、私は自分の命にかえてもと思って御世話申しました。光君はよく私の云う事を御きき下さいまして何でも私の手でなければ御気にめさないほどでございました。それが又どんなにうれしかったでございましょう、光君様の御体が御なおりあそばしたならこんなに御世話申しあげた事も御忘れあそばすだろうと存じますと……それもかなしみの一つでございました。
 いつまでたっても光君様は御なおりになりませんでした。春がすぎ夏となって又秋をむかえても、……随分長い久しい間でございましたが、その間、私は幾度か正気のなくっていらっしゃる光君に思ってる事をうちあけて申しあげて仕舞おうかと存じましたが、それもわるい事と思う心がおさえつけてしまって居りました。私は只生れながらに一生光君さまの召使として理性の力で悲しいつらい事をたえて暮して行かなければならないものに定まって居たのだと思いきめて居りました。そしたら、今日、この悲しい、はかない事に出来《でく》わしました。私はこれも運命と存じて居ります。私の今まで思って居りました事は光君さまの御かくれと一緒に弔[#「弔」に「(ママ)」の注記]むられてしまった事でございますが、私は思った事がございますので、明らさまに恥かしさをしのんで申しあげます。女としてあまり大胆すぎる事で又あまり露骨すぎて居りましょうけれ共私は今日となって心にわだかまるかくし事のあるのは、と存じましたので……、私は、この愚な女らしくない女を人より以上に御いたわり下さいますのにすがって御心のひろい殿に申しあげたのでございます。どうぞ御ゆるし下さいまして……いつかは御わびをする時もあろうかと存じます」
 斯んな風にはっきりと書いてあった。殿はなんとも云うことは出来なかった。今時の女、それにまだ二十にもならない女が大胆に自分の思って居ることを人に告げる、その事も主人の弟を思って居た事を主に告げる、あまり大胆な仕業であるが――
 殿は斯う思って迷った、けれ共常からどこか毛色の変った学問の深い考のある女の事だから何か感じた事だろうと思って居た。けれ共最終の、
「いつかは御わびをする事もあろうかと存じます」
と云うのがきにかかってもしかすると書おきででもありぁしないかとさえ思った。けれ共、あの位考のある女が今死んでどう云うわけがあるかと云う事がわかって居るであろうと思って幾分かの安心は持って居た。
 其の晩はもとより寝床に入ったものはなかった。外の女達はしずんだかおをして居ながら――又経をくりかえしながら退屈しのぎに時々は低い声でしゃべって居たけれ共、紅一人は持仏の室に入ったきり夜一夜かねをならし、通る細いしおらしい声で経をよんで居た。経の切れ目切れ目にはかすかに啜泣きするらしい様子が女達の心を引きしめてだらしなく居ねぶるものなどは一人もなかった。
 夜が明けて各々のかおがはっきり見えるようになると又かなしみも明るみにハッキリかおをだしてきのうの今頃と云う感じがたれの頭にでもあった。化粧もうっすり黒い衣をきなくちゃならないのがまだこの部屋に来てまもない女等は辛いように思われた。早い内に殿も身に喪服を着て、
「どんな様子だい、いくら悲しいと云ってもあんまり力をおとさないでおくれ」
 斯う云われると今更のように涙が流れ出して云い合せに女は泣き伏した。
 持仏の間の中では相変らず鐘の声と経の声がきこえる。
「誰だいあすこに入って居るのは?」
「紅でございましょう、昨夜は夜中入って居ったのでございます」
と云ったので戸を細目にあけて中に入ると香の香りのもやの様にただよう中に水晶の珠数をつまぐりキチンと坐って経をあげて居る横がおは紅にちがいない、貴いほど、気味のわるいほどひきしまった、すごい美くしい様子で有った。足音はしずかに衣ずれは立てわきに坐ると、殿はおどろいたように「オヤ」と云った。
 無理ではない今まで丈にあまって居たかみは思いきりよく根元からきられてそのしとやかななで肩の上に、ぞっくりそろった末をゆるがして居る、そのつや、その香りはもと通り紫とかがやき紫の香りを立てて居るのがしおらしかった。
 経は紅の口からまだほとばしって出る、まるでわきに人の居ないように……殿はその姿を絵像を見るような人間ばなれをした気持で見て居た。経の切れ目になった時、紅はつと坐を下って手を支えた。
「昨日はまことに……妙なものを御目にかけまして相すみませんでした、どうぞ御ゆるし下さいまして。御覧の通りになりますのに人にかくした、ことに殿様のようにいろいろ御恩になって居ります御方にかくした事が有ってはと存じましたので……」
 ひくいけれども落ついた立派な態度と声でいった。乳母も髪をおろしてしまった。母君もおろしてしまいたいと云って居られる。こんな事を思った殿は、冷い風の吹いて来るような心持で、
「私は、御前のたれよりもまことの心をもって居て呉れたのを有難く思う、今まで有った事、私はその事についてしたお前の行がいかにも立派であったと思う。私は死んだ人にかわって御前のつくして呉れる心地を感謝するのだから――」
 紅はだまってきいて居た。
「有難うございます」いかにもさとったようなひややかな声はしばらく立ってからその口をもれた。
 紅はこれから乳母と共に別に一むねをもらってそこにほんとうの尼の生活をする事にきまった。光君の部屋は兄君即ち殿の持ち部屋になったけれ共、もとのまま光君の美くしい色の衣は衣桁に几帳も褥子も置いて有ったところに置いたままになって居た。
 人達の頭の中からは中々いつまで立ってもこの悲しみはぬけそうにもなかった。



底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年11月25日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
※底本では会話文の多くが1字下げで組まれていますが、注記は省略しました。
※(十一)〜(十四)は、底本では、縦に並んだ漢数字を、横向きの丸括弧で挟むように組まれています。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年5月12日作成
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