、左様なら、若しお前に心があるならそう云って御呉れ、『私は彼の人のうつり香のする部屋で死にたいけれ共それはどうせゆるして下さるまい。私はこの貴女の残して行った衣を貴女と思って抱いて死ぬ、せめての心やりに』とね。そう云って居たと云って御呉れ、さらば――とこしえに」
 若者の姿は障子のそとにきえて机の前の女君の衣もなかった。

        (十一)[#「(十一)」は縦中横]

 随分歩いた、随分久しい間歩きつづけた。それでもまだ光君の部屋へはつかない。それに路は大変ひどくて急な坂や、深い淵がある。光君は急な流の水に女君の衣の裾をぬらすまいとし、多く出た木の枝では美くしい衣にほころびを作らない様にして歩いた。大変つかれてもう歩くことが出来ない程に思われた、下は大変にかたい岩であるけれども我慢が出来なくてその岩の上に腰を下ろした。大変につめたいのでビックリするといっしょに光君の心は夢からさめた様にハッキリした、妙だと思ってあたりを見ると深い山でも恐ろしい川辺でもない、自分は西の対の廊に腰を下ろして居る。女君の衣を持って居たのも幻かと見れば夜の中に卯の花の衣は香って居る、これは幻ではなかった。男君の心は乱れてどれがほんとうでどれがまぼろしとも分目がつかなくなってしまった。考えるでもなく涙をこぼすでもなくボンヤリと木の間にチラチラと見える灯の光を見て居た。遠くの方から足音が段々近づいて来る、そしてパタッと光君のわきで止った、そしてそっとすかし見る様にして、
「オヤ、マア、誰かと思ったら貴方だったのか、私はまた物化《もののけ》でもあるかと思った。私はこれから常盤の君の部屋に行くから貴方もおつき合いをなさいよ」
と云う声は兄君である。
「エエ」
 気のぬけた様にそっぽを見ながら云う。兄君は傍にしゃがみながら、
「オヤ貴方は女の着物を持って居ますネ。誰の、紫の君んでしょう、だから私は貴方はまわり合せの好い日に生まれた人だと云うんです。たまにはじょうだんも云うものですよ、サ行きましょう」
 片手ではしっかり衣をかかえ、片手を兄君に引かれて障子に入った。
「アラお珍らしい方が御そろいで行らっしゃいました、君様光君と御兄様と」
 几帳のすぐわきで本を見て居た女がとんきょうな声で云う。
「オヤどうぞお入り遊ばしてとり乱して居りますが御許し遊ばして」
 几帳のかげで常盤の君の声がする、沢山の女達は急に鏡を見たり袴の紐を結びなおしたりしてどよめき出す。光君は衣をかかえたまま兄君に手を引かれて女の前に行った。
「ほんとうにようこそ御出で下さいました。あんまり淋しゅうございますから誰方か来て下さればと思って居った所でございます、ほんとうにようこそ」
といかにも嬉しそうにじょさいない口調で云う。
「私の来たのよりこの人の来た方がどれだけ嬉しいのだか知れたものでない」
 女は微笑みながら光君の方をチョイチョイ流目に見る。
「貴方は何故そんなにぼんやりして居るの、しっかりなさい」
 ぽんと光君の背を叩いて紫の君の衣を指さして女と目を合せて笑う。女は表では快く笑いながら心の中にはヤキモキして大変飛びかかりたいほどである、あんなに自分をきらった人がどうして来たのかとうすきみわるく妙にも思った。女達は三人を取り巻いていろいろの話をしてはしゃいで居る、しばらく話してから兄君は何と思ってか光君を一人のこしてかえってしまわれた。女達は遠慮した様にみんな次の間に立って行ってしまった、加なり広い部屋の几帳の中には立った二人きりになってしまった。
「どう遊ばしましたの、大変ぼんやり遊ばして」
 女はお腹の大きくなって形のわるくなりまさったのを恥かしいとも思わない様子でしゃべって居る。
「エエ」
 光君はまだぼんやりして居る。
「エエじゃあございませんよ、どう遊ばしたんでしょう」
「…………」
「アラどなたの御めし、お美しいんですこと。どなたのかあてて見ましょうか紫の君の、そうでございましょう」
 手を出してその着衣を取ろうとする、光君はだまったまましっかりおさえてはなさない。女はいまいましい様なかおをしてそれから手をはなして、
「貴方、あちらはさぞ面白くっていらっしゃったでございましょう、お二人でネ。私の上げた御手紙なんかはどうなりました事やら」
「面白くて悲しくて情のうございましたよ、貴方の手紙なんかあんな手紙私は見あきてしまった」
「上げない方がよろしゅうございました、貴方は一寸も私の心を察して下さらない」
 女はいかにも恨しいと云う様に鼻声で云う。
「私は貴女のなまやさしい手紙を見る毎に身ぶるいが出た。私はチラとききましたよ、貴女のお腹の大きくなった事生れるややさんのおっつけ主をさがして居る事からあの兄弟のいたちの道切りの事までもネ」
 いつもにない早口のよそを見ながら云う調子の妙なのに女は妙なかおをしながら、
「アラそんな事はございませんよ、誰が申しました。私は一人で淋しくなきながら貴方の御かえりを待って居りましたのに」
「ほんとにさぞ淋しくかなしかったことでしょう、いたちの道切りをされた時には」
「貴方今日どう遊ばしたんですの、紫の君の着物を御もらいになったのでどうか遊ばしたんでしょう」
「…………」
「私はどんなに貴方を思って居るか、御わかりになりませんの。
 ほんとうに私はどれほど貴方を思って居りましょうか、どうぞ哀れとお思いになって下さいませ」
「…………」
「私はあなたのそのまぼしい様にお美くしい御かおを見て身にしみる様に、そのうつり香をかぐ時私は私はマアほんとうに」
 女は青筋の沢山出た手で光君の手をとった。光君はだまって手をとられて居たが、いきなり女君をつきとばすようにして立ちあがり、
「よろしく、御腹の赤さんに」
と云って戸のそとに走り出てしまわれた。廊を走って行く足音がどこまでもつづく。

        (十二)[#「(十二)」は縦中横]

 フラフラしながら部屋にかえって来た男君は集って居る女達に一言も云わないで、几帳のかげに入ってしまった、身じろぎの音もしない。女達は眉をひそめて、
「どう遊ばしたんでしょう」
「又、何じゃあないんでしょうか」
「妙な御様子ですこと」
などと云い合って居た。乳母は気が気ではなく若しや気でも変になったのではないかと時々いろいろのことをたずねる。
「紫の君はどう遊ばしました」
「また無情くされた」
「又、又でございますかマア何という」
 乳母のかおは前にもまして曇った。
「もう私の死ぬのは目の前に迫って居る。私の十八の生命は長くて短かかったネーお前にもいろいろ御世話になった」
 話をすれば間違ったことは云わなかった、けれ共夜はすることもなしにボンヤリとおきて坐って居て昼は他わいもなく寝入って居た。そんな日が一週間も綴いた、八日目の日男君はわきに居る女に、
「母君のところから大きな雛《ヒナ》を一つかりておいで、女びなを」
 せいた調子で云いつける。
 女は不思議なかおをして、
「おひな様でございますか、何に遊ばすんでございます」
「何故もって来て呉れないのか、私は死んでしまうから」
 こわいきびしい調子で云ったので女は気味をわるがって西の対へ使に行って間もなく美くしいひなを持って来た。女はそれを光君の前に置いて、
「どうあそばします、御手伝いいたしましょう」
「あっちにおいで」
 若者はそう云ったまま人形を抱いてつっぷしてしまわれた。女は見かえり勝に几帳のそとに出た。女はそのことを乳母に耳うちをした、乳母の目は急にひかってぬき足をして光君のわきに行って見た。急に身を引いて女達の居るところにかえって来た、乳母はそこになきたおれてしまった。女達は口々に、
「どう遊ばしました」
ときき乳母は涙にむせびながら、
「とんだことになってしまった、光君様はとうとう気が変になっておしまいになった」
 漸くこれだけ云った乳母は前よりも甚く泣いて居る、女達はかわるがわるのぞいては泣いて居る。
「マア何という御いとしいことだろう、息もかよわない人形に紫の君の衣をきせて生きて居る人のようにしっかり抱えて何かしきりに云っていらっしゃる」
 若い女達はもう自分の気も狂いそうに悲しがって居る。悲しい重い空気はこの美くしい部屋に満ち満ちてしまった、その事はすぐ西の対へも東の対へも知らされた。母君と兄君は目を泣きはらしながらすぐに馳けつけて来た。几帳はどけられて女達は何を云われても返事をするものがない、気のよわい母君はその姿を一目見た許りでそこに気を遠くしてたおれてしまった。兄君は美くしいしかし物狂おしい光君の手を取って、
「浅ましい姿になってしまった、私は貴方自身よりも悲しい思がする。たった一人しかないこの兄のかおが貴方に分るの」
 かおをのぞき込んできくと光君は声をふるわせて遠くを見ながら、
「紫の君ほか私にやさしい言葉をかけて呉れる人はない。オヤ紫の君、彼の人がそこに居るじゃあないか、誰がいじめたのだ、そんなによわった様な姿をして居るじゃあないか、どこも痛くないの」
と自分の持って居る人形の手をにぎって肩をやわらかくさすって居る。そのいじらしい様子を男の兄君さえ見て居ることが出来なかった。母君は言葉もかけないですぐ女達にたすけられながら西の対へかえってしまわれた。兄君はしばらく女達にいろいろの意得なんかを云って居られたけれ共、
「出来るだけ早くもとの様になって下さい、私の一人しかない美くしい弟の人よ」
と云ってそのつめたい手をそうとにぎって涙をこぼしながらかえってしまわれた。女達はだれでもこの光君を大切に親切にあつかったけれ共その中でも目立ったのは先の夜に種々のことを問われそれに正しい公平な答をした年若な美くしい女と乳母とであった。物狂わしくなった光君はけっしてらんぼうをするようなことはなかったけれ共あけくれ彼の人の着物を着せた人形を抱いてその人の前に居る時の様に話して笑ったり泣いたりして居られた。女達がどんなに親切にして上げても光君は彼の美くしい年若な女と乳母の云うことほかきかなかった。朝夕の化粧、衣更のことなどは皆二人の手にされて常に物凄い様な美くしさを持って居た。光君は夜昼のけじめなく美くしいことばでかなしいことを口走って居た。
「ア、大変だ誰か早く来てお呉れ、彼の人を誰かがつれて行ってしまう、オヤもう見えなくなった。マア、このしゃれ頭はどうしたのだろう、きっとこの中に彼の人も居るに違いないけれ共、アア私は生きて居られないほど悲しい」
 身をもんで人形をしっかり抱いて泣き伏して居られるト急に身をおこして、
「マア何と云ううれしいことだろう、あんなにつれなかった人がまアどうしてこんなにおとなしくやさしくして下さるの。私の生が新らしく又吹き込まれたほど嬉しい、オヤいなくなった、どこへ? 早くさがしておくれ、あああのおおきな川に身を投げようとして居る、ア、もう入ってしまった。あああたしのよろこびは一時の夢であった」
 こんな様なことは日に幾度となくくり返されることであった。朝の化粧の時など、光君は自分の髪をかく前に人形のかみをかき、自分のべにをつける先に人形の唇にべにさし指できようにつけてやって自分の胸にしっかり抱いて、
「ア、彼の人の唇のべにが私の胸にうつった、貴女はこんなに音なしく私の云うことをきいて化粧までさして下さる」
 そんな事を云いながら髪を梳いて居る若い女の手を取って、
「マア、何と云う美くしい手だろう、この手を私はもうもらってしまった」
 こまかくふるえて居る女の手をしっかりにぎって自分の頬にあてたり眺めて見たりするのを女はさからおうともしないでなすままにされて居る。紅は、この美くしくて物狂おしい人を思って居る、光君が紫の君を思って居た位、けれ共主従の関係をふかく頭にきざみ込まれた女は胸のさけそうな苦しさをしのんでかお色にもそぶりにもあらわさないで紫の君との恋の成功するようにとかげながら思って力をそえて居た。恋に敗れた光君は気が狂ってしまった。女は悲しみながらも自分一手でこの美くしい人の世話の出来るのをよろこび、又自
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