つでも出られると云う様にそろったのは四日の後であった。
五日目の日、日柄も好しお天気も定まったからと云うのでいよいよ出ることになった。仰山な別れの言葉などをかわして車に乗った女達は尚残りおしげに時々車簾を上げては段々小さくなって行く館を見て居た、やがてそれも見えなくなった時には急につまみ出された様な気持で誰も話もしないので一人一人違った思を持って居た。しずかなあたりの景色や人の足音にいろいろの思の湧く女君は懐硯を出して三つ折の紙に歌や短い文などを細く書きつけて居た。女達もまねをするように紙を出したり筆をしめしたりして居たけれ共あんまり才のない女達は車のゆれる毎に心が動いてとうていものにならないのであきてしまって筆を持ちながら髪をさわって見たり、思い出した人の名を片っぱしから書きつけなどして居たので女君が、
「どんなのが出来たの、見せて御覧」
と云った時に、
「出来ませんけれ共」
と云いながら紙を出した女はたった一人か二人ほかなかった。
女達はしずかにおだやかな旅をつづけて海辺の家についた。
女君は海辺の家に行ってから二日立つまで弟君の居ることを知らなかった。
部屋も大変はなれて居るし女達もだまって居たのでしずかにして居る女君には一寸もわからなかったのである。
二日目の夕方、女君は縁側に出てしずかな夕暮の空気の中に灰色によせては返して居る波音をいかにもおごそかな心持を以てきいて居られた。段々波の底まで引き込まれる様な重い気分になって早く他界した二親の事から、この頃の事などを思い合わせて段々迫って来る夜の色の様に女房の心には悲しみが迫って来た。ジーッと海を見つめて居ると目にうつる万のものがくもって来た、冷たいものが頬を流れた。女君はたえられない様にうつぷせになってしまわれた。傍の木かげで男君が見て居様などとは夢にも思わなかった姫ははばかる人もなく心のままに悲しむことの出来るのを悲しい中にもよろこんで居られた。まだ木の香の新らしい縁に柳の五重を着て長い美くしい髪をふるわせながら橘の香の中につかって居らっしゃる女君の姿は絵よりも尚多[#「多」に「(ママ)」の注記]いものであった。始はつつましく声を立てなかった紫の君も心の中にあまる悲しみは口の外に細い細いすすりなきの声となってもれた。わきに見て居る男君はたえられなくなってかくれて居るのも忘れて、
「オオ美くしい、まるで絵の様な、私はその涙を私のためにそそいで下さる様にとどれだけねがって居るかは貴女も知って居らっしゃるだろうに」
とうらめしい様に云いながらそのそばによると、思いがけなく声をかけられしかもそれが光君だと云うことを知った女君はにげるにも逃げられず声を立てるにもたてられず前より以上に深くつっぷしてしまわれる美くしさはなおます許りで夕暮のさびた色の中に五色の光を放つかの様に見えた。男君は女君の大きな衣の下から細工物の様な手をさぐり出してそっとこわれない様にと云うふうに握りながら、
「何故そんなになさるの、私はどんなに貴女のそのかがやく様なかおを扇なしで見たいと思って居たことでしょう、ネ、どうぞこっちを向いて下さい」
女君のすき通る様に白い耳たぼはポーと紅さしてとられた手を放そうともしないで只小さくふるえていらっしゃる様子に光君は、
「どうしたら好いだろう、こんなに可愛い人を」とまで思いながら自分も小さいふるえた声で、
「私は何からさきに云ってよいやらわからない。私はほんとうにもう死んでも好い、貴女のかおを扇なしで見たから、貴女は自分のために命をなげうってまで辛い恋をして居る男を哀れとお思いにならないのエ」
女君は恐れる様に身をふるわせて居る。
「そんなに貴女は私を恐れてそんなにいやがっていらっしゃるの、私はマア――そんな人間になったのだろうか。私は、それだのに、それだのに私はどうしても貴女のことが忘られない、心をこめた錦木も童のおもちゃにされるほどだのに」
「…………」
「何とも云って下さらない、どうぞ何とか云って下さい、『馬鹿者』とでも『おろか物』とでも。私は気が狂いそうだ、私の心はどうしても貴女に通じない、サ、どうぞ何とか云って下さい」
若君の声ははずんで絶々に女君の耳にささやかれる。女君のかおは青ざめてふるえもいつか止まって小鬢の毛一本もゆれて居ない。口は封じられた様にかたくとざされて人形の様になった女君に、気のぼうとなって体の熱さばかりのまして行く男君は尚熱心に云う。
「貴女は知って居らっしゃるでしょう、恋しい人の門に立てる錦木の千束にあまっても女の心が動かない時には男はいつでも苦しい悲しい思をのがれるためにまだ末長い命をちぢめると云うことを。私の立てた錦木はもう千束にとうにあまって居ます、それだのに貴女は、貴女は」
女君の目からは涙が流れた。恐れてでも、若者の心を察してでもなかった。女君の心はこんなことを云われる自分はどこかたりないところがあるからだと云う思でみちみちて居た。涙は口惜しい意味の涙であった。
「涙! 誰への涙何が悲しくって。
貴女は私が貴女の二親のないので馬鹿にした恋を仕掛けて居ると思って居らっしゃるんではないの、そうじゃあないの。私の此の命にかえてまでの恋は貴女にはそんなに思われているのか知ら、そんなにまで下らないものに思われて居るのか知ら、それほどまで」
男君の頬には涙が流れた。
「私はもう何も云いますまい、けれどどうぞこれだけは返事をして下さい。貴女の私にこんなにつれなくするのは御自分の心からなの、それとも人に教えられて、どうぞ教えて下さい」
女君はだまって居る。
「何故返事して下さらない、貴女の心から、それとも」
女君の唇はまだ動かない。
「貴女の心から、それとも教えられて」
若君の心はふるえにふるえおののきにおののいて居る。
「心から」
低いながらもハッキリした声は人形の様な女君の口からもれた。男君の顔の筋肉は一時は非常にきんちょうしそして又ゆるんだ、と同時に、
「貴女の心から心から、貴女の、おお貴女の心から、どうぞどうぞ貴女のその口から死ねと云って下さい、死ねと……云って下さい。私のこの真心はあなたの心の中に皆悪い形に変ってうつって居た、もう二度と貴女に会いますまい、けれ共死んでも貴女を忘れませんよ、死んでも忘れませんよ、それだけは覚えて居て下さい。おお、氷の様な美しさの方、忘られない方、紫の君」
光君のかおは死んだ様に青ざめて息ははずみ声はうわずってあらぬかたを見つめ、もえる様な言葉はふるえる唇からもれる。だまって毛を一つゆるがせなかった女君はソーと立ち上った。一足一足段々遠くなるけれ共、若君はまだよそを見つめて居る。女君の姿はも少しで物かげにかくれようとしたその時急に夢からさめた様に、しなやかにうなだれて行く女君の後姿を見て居たが両手でしっかり胸を抱いて、
「おお、あの姿――」
つっぷしてかたまった様になった男君の姿は、淋しい潮なりと夕暮のつめたい色につつまれながらいつまでもそこを動かなかった。
(九)[#「(九)」は縦中横]
その後一日二日と立つにつれて光君の頬のやつれは目立って来た。前の様に苦情も云わず悲しいことも云わないでだまったままでだんだん衰えて行く若君の様子を心配しないものとては家の中に庭の立木位のものであった。
「どう遊ばしたのでしょう又御悪いのか知ら」
「よく伺ってお祈りをしてもらうかお薬を差し上げるかしなくては大変な事になるかも知れませんヨ」
などと云う不安心な言葉はよるとさわると女達の口からもれた、乳母は日に何度となく、
「どうぞおっしゃって下さいませ、私の命にかえてもと思って居る君様がこんなでいらっしゃっては――少しは私の苦労や悲しみをお察し下さいませ」
と涙を流して拝む様にしてたずねても只、
「何ともない、時候の変り目で着衣もうすくなったし、又私のいつもの夏やせだから心配しないで御呉れ」
と云う許りで日許り立って行った。山の手の家から時々来る使はいつも必ず母君と常盤の君の手紙を持って来るのであった。三日目の今日来た男は例の手紙を取り次の女に渡しながら、
「お前さんはここに居る事だから知りなさるまいがこの頃常盤の君はお腹の工合が変でネ、そのこんど生れる嬰児《ヤヤサマ》をおっつけられると困るのであの御兄弟もこのごろはいたちの道切りと云うわけなので、おっつける人を今から一生懸命にあさっておいでになると云うことだ、いやはや恐ろしいことだ、桑原桑原」
と云って居るのが部屋が浅いので光君の耳まできこえた。持って来た手紙はいつもの様にいや味たっぷりなものであった。光君はそれをポイとわきになげて再び見ようとは一寸も思われなかった。この間の夕にあの美くしい女君の口から、
「心から」
と云う言葉をきいてから光君は悲しみのあまり驚きのあまり、この頃は魂のぬけた様に何を考えて云おうとしても思は満ち満ちて居ながら順序を立てて言葉に云うことは出来ないほどになってしまった、それで居て、
「心から」
と云った其の声と姿の忘られないのをどんなに若君は悲しがったろう。七日、十日と立つと気の狂う許りにたかぶった神経も段々しずまると一所に前よりもはげしい悲しみが光君をおそって来た。明けても暮れても光君の耳には、「心から心から」とささやかれて居た。或時女達に向ってきいた。
「つらいこの上なく辛い思いをして生きて居るのと死んで仕舞うのとどっちが好いだろう」
女達はお互に顔を見合せながら、
「私は最後に少しでも望みがあれば生きて居りますが、それでなくては死んでしまいます」
と答えた女が多かった。
「誰でもそうだネー、私が今急に死んだらお前達はどうするだろう、お墓の中からのぞいて居たら面白いだろう」
とじょうだんの様に云った光君の言葉をきいた女達は心の中で、こんなにやつれていらっしゃるのだから何とも云われないとたよりなく思いながら、
「そうしたら女達はみんな黒い着物を着て髪を下してしまいますでしょう」
と年かさの女は答えた。
「お前方のなった尼さんは黒い着物の下に赤の小袿をかくして髪を巻き込んでおく位のものだろう。私が死んでしまった時にほんとうの真心から黒い着物を着て呉れる人はこの広い世界に一人も居ないのだ」
そんな事を話した夜から光君は大変熱が上った。うわごとは絶えまなくもれた、その思って居ることを正直に云ううわごとは一言でも半言でも皆紫の君のつれなさを嘆いて居るのであった。乳母は悲しみと怒りにふるえながら、
「まだ彼の人は意地をはっていらっしゃると見える。何と云うにくらしい方だろう、きっと化性のものにちがいない」
とまで罵った。子供の様にたえられない様にすすり泣きをすることもあれば、いかにもうれしげに肩をすぼめて笑うこともある。女達はきっと光君はもうもとの心にはかえるまいと思ってどんなに悲しがっただろう。うわごとを云って熱の高かった日は三日だけであった。四日目に熱はうそのように下って夢からさめた様に青ざめてつかれはてたように乳母によりながら、
「何と云う因果な事だろう、私はあの人に、『心から貴方につれなくする』とまで云われても、私はあの人の事が忘られない。お願だ、どうぞ忘れさせて御呉れ、あの気高い姿とあのかがやく様な顔を」
と云って三つ子の様に乳母の肩にかおをうずめて泣いて居る。乳母はもう胸が一杯になって何と云ってよいやらわけがわからず只その背をさすって、
「お察し申します、お察し申します。私ももう死んでしまいそうに悲しゅうございます」
と一所になって泣いて居る。
「何故私は忘られないのだろう、彼の人はなぜするどい剣で私を殺して呉れないのだろう、何故殺して呉れないのだろう。誰もなぐさめても呉れず、只一人で泣いて悶えて苦しんでそうしてたった一人で死んで行くのが私の運命なんだ」
ひからびた様になった年とった乳母の肩をしっかり抱いて泣いて、身をふるわせて悲しい思をうったえて居る光君の哀れな様子に女達は居たたまれなくなって顔をおさえながら出て行ってしまった。その□[#「□」に「(一字分空白
前へ
次へ
全11ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング