どと云うことばは車のそばに来て見送りをして居る女達の口から出たことである。女達は衣の裾が汚れるのも忘れて立って居る。
「ここに居てなまじ悲しい思いをするよりは」
などと袖で顔を覆うて挨拶もしないでかけ込んでしまう人達もあった。旅をしなれない女達は彼の世にでも行くように思って歌をやったりとったり笑ったり泣いたりして居る。車簾の中からそのそわそわした様子を見て居た光君は自分の事でないように落ついた心持であの家に行ってからの楽しさを思って居た。
「さあもういいでしょう。夜中まで歩かなくてはならない様になると上様の御体にさわりますから」
と徒歩で行く男達は口先では急ぎ立てては居るが自分達許りの都を只の一月でも半年でもはなれると云うのが悲しいようであんまり大きな声は出せなかった。
 車の動き出したのは日の高く上った時である。
 一番先に徒歩の男、まん中に光君の車、車簾の間から美くしい五衣を蝶のまうように見せた女達の車、衣裳道具をのせた車はそのあとから美くしいしずかな行列であった。路の両かわに立って見て居た里の女達は女達の乗って居る車を見て、
「マア、何と云う御美くしい事だろう。マア、あの衣の色の好い事と云ったら、どんなに美くしい方達が乗っていらっしゃるんだろう」
などと話し合って居る。しずかな足音に交ってかるいやさしい調子の話声がきこえたりゆれる毎に美くしい香を送って来ることなどは京に出たがって居る若い女の心をそそるに十分であった。
 供の男がならんで歩いて居る男に、
「ホラ御覧、あの柳のかげに居る女を、今一寸見た時は一寸悪くないと思ったが女の人達の車が通った時衣のはじをのぞいた顔を見たらうんざりしてしまった」
「それは御愁しょうさまなことで、よくねて居る時と、ねばつくものをたべて居る時と自分より背の高い人の背越しに物を見て居る時のかおの好い女はほんとうに好い女だと私の長年の経験ではそう思って間違いはない」
などと下らない事を云って強いて笑って居るような声をきくにつけても自分のまわりにはそんな事を云うことほかしらないもの許りになったのだと急に淋しさが身にしみて来たけれ共景色の好い風情のある住居に気の合った人達許りで住んで紫の君も自分のものとなって朝夕あのかがやく様な美くしい顔を見て彼の人の衣のうつり香に自分の身まで香わして居る時はマアどんなに楽しい事だろう。そんな時には却って淋しいほどのところがいいそうでもあるからなどと夢の様のはかないたのしさを思いながらゆられて居た。
 女車の中の人達も、久々で野辺の景色や、里の女達に賞められたりうらやまれたりするので祭りに出た時のような気持になってうれしさにまぎれて居たが段々日影も斜になって来るしあう人もまれになると淋しさが身にしみて高く話して居た声もいつかしめってはばかる人もないのに御互に身をよせ合って何か話し合っては※[#「さんずい+因」、179−5]ぶ声が車の外まできこえるので男達までのこして来た妻の事などを思い出して足の運びのおそくなるのを年取った旅なれた男がいろいろに世話をやいて力をつけるのであった。光君は始終紫の君の事を思って居るので退屈はしないかわり時々溜息をついたり涙を流したりして居た。目的の町に入った時はもう日の落ちかける時であった。町に入ったと云うのをきいた女達は急に顔をなおしたり着物をととのえたりして今までの事は忘れた様に美くしい声で話し合ってはかるいさざめきを車のそとにもらして居た。男達も同じ事である。夕焼けのかがやきと相まってより以上に美くしく見える女達の衣の色は前よりも一層はげしく賞め言葉を受けた。海辺の家についた時はもうすっかり日が落ちて居た。

        (七)[#「(七)」は縦中横]

 今まで見たこともない様な大きな波の朝夕寄せたり引いたりして居る海辺のわびしい住居に昨日落ついた許りの光君やその他のものは世の中が変った様な別世界に来た様な気持で居る。歌と絵にほか見もしききもしなかった藻塩やく煙も朝夕軒の先に棚引いて居ては歌によむほどなつかしいものでもなかったし毎日藻塩木をひろいに来る海士の女も絵のように脛の白い黒い髪のしなやかな風をしたものは一人もなかった。ここの生活は空想と現実の差をしみじみと人々に思わせるのであった。
 さっぱりと美くしく出来ては居てもまだ木の香も新らしくてなつかしい部屋の主のうつり香もなく見覚をつける様にして家の中も歩いて居る位なので若い女達や小さい童などは夜になると各々の部屋に引き込んで呼ばれなければ出ない様にして居た。光君は目の前に海の見える浅い部屋で暮して居た。前栽は自然のままをとったので大きな苔のむした岩や磯馴の面白い形をした松などが入れられて引水も塩水を引き込んであるので泉水の中には水の流れにつり込まれて赤い小さい魚などが出るのを忘れていつまでも居ると、そんな様なかん単の調子で暮して居たけれ共そこに住む人の心はそんなかんたんなものではなかった。一目見た時に、
「マア何と云う淋しい所だろう。私はこんなところに一日も居られないだろう」
と云って居られた光君が一日立つと誰よりも此の家が好きになって女達を集めては、
「アノマアまっさおにはてしなく続いて居る海を御覧、何と云う大きな美くしさだろう。それから此の真白い銀の様な砂を御覧、その間に光って居る赤い貝や青い石をアアほんとうに私はその美くしい貝や石をつないで彼の人の体いっぱいにかざって上げたい。彼の人が早く来れば好い」
などと何かにつけて紫の君の事を云い暮して居た。一日立っても二日立っても女君は来ないのでイライラした光君はわきに居る乳母にいきなり、
「返事は何と云って来た」
と云うと何の事やら分らないでマゴマゴしながら、
「返事、何の返事でございます。お文でもお上げになったのでございますか、私は一向存じませんが」
と云うと斜に座って居た光君はクルリと向きなおってけわしいかおをして、
「私はもう今すぐここを出て山の家に行って仕舞うから好い、すぐ仕度をたのんでおくれ。私はお前にだまされるとは思わなかった」
と云ってジッと顔を見つめて居るので乳母はウッカリ口をきいてはとだまって頭を下げて居たがやがて思いだしたように、
「分りました。年をとったのでついどう忘れをしてしまって。私が来る時にくれぐれもたのんで彼の方の乳母はどんなにもしてよこす様にするからとうけ合ったのでございますからもう二三日したら行らっしゃるに違いありませんですから」
と云うので、
「それなら好いけれ共どうぞ私の心も少しは察してお呉れ。こんなたよりない心をどうせ察しは出来まいけれ共」
などとそれからは乳母を相手にいろいろな悲しい事を云って沈みきって居た。夜になっても寝られなかった光君は当直の女の中で一番若い京の人の母親をもって居てこっちで生れた紅と云う女を呼んで自分はあかりの方に背を向けて真白に人形の様に美くしい女のかおをしげしげと見ながら、
「ネーお前どうぞ私のきくことに返事をしてお呉れナ」
とやさしい声で云われると女はうつむいて少し頬を赤くしながら、
「私に分りますことなら」と云う。光君は、
「それではきく、どうぞ正直に教えてお呉れ、思い上った心強い女を恋して自分のものにしようとつとめる男と、男の命をとるまでに心強い女とお前はどっちが悪いと思う」
と云うのは自分と紫の君の事を云うのだと女にはよく分って居るので何と答えてよいかと思い迷ってだまったまんま袴のひもをいじって居ると光君は涙声で、
「お前は女だから女の味方をして『それは恋する男の方が悪いのだ』と思いながら口には出しかねてだまって居るんじゃあないかい」
 女は其れには答えないで、
「私はお察し申して居ります。私は貴方がお悪いとは決して思って居りませんけれども紫の君もお心のたしかなたのもしい方だとこの頃になって余計に思う様になりました」
 光君はよろこびにはずんだ様な声で、
「お前もそうお思いかい、どう云うわけで」
「申し上げましょう。けれ共女のあさい考えで若し間違えて居りましたらどうぞ御許し遊ばして。
 私は此の頃の姫様方があんまり音なしすぎて何でも云うことを御ききになりすぎるのをいやに思って居ります。それにあの方許りはしっかりときまった御心でいらっしゃいます。御自分には御両親がないから今にも少し立ったら黒い衣でも着ようと思って居らっしゃいますし又、御自分は人の家にかかり人になっていらっしゃる方でございますからその自分のために関係の多い方に苦労をかけたり又、そうたいした後見の方もない自分にかかり合って居らっしゃる方だなどと云わせたりしてはすまないと云う御心なんでございますってよく乳母の人が云って居ることでございます。私はよけい御いとしい、たのもしい方だと思って居ります」
と云うと弟君も大層よろこんで、
「御前は若いからよく私の心も察して呉れる。彼の人の心はたのもしいとは思ってもつれない様子は恨まれる、若しお前が彼の人だったらどうする」
と云うと女は夜目にも分るほど赤いかおをして、
「存じません」
と云ってわきを向いてしまう。
「あんまり下らない事を云って仕舞ったゆるして御呉れ」
と云った光君は心の中で自分よりももっとはかない恋をした人が世の中にまたと有ろうかと思いながら、
「お前は私よりはかない恋をした人の話を知って居るかえ」
ときくと女は口ごもりながら、
「絵の中の人に恋した話や、夢に見た面影の忘れられなかった人などは世の中に多いときいたことがございます」
と云ってそっと若君のかおを見ると淋しい悲しそうな面持で、
「恋する人の心はこんなに悲しいものだろうか。私は紫の君に合うことをよろこびながら恐れて居る」
 そう云ったまんま光君は静に目をつぶって居て身動きもしないので女はもうお寝になったのかとそうと立とうとすると、
「もう行ってしまうの、もうねむくなったのかえ」
と思いがけなく若君が云ったので女は中腰になりながら、
「イイエ、左様じゃあございません一寸」
と云ってまた座りなおした。女も光君もだまったままややしばらく立ったが、
「もう行っても好い。そのかわり呼んだら来て御呉れ」
と云うので女は次の間に立った。光君はその夜一晩中イライラした何か強い刺げきを望む様な心持で夜をあかしてしまった。若君には紫の君も立派な御心だし、貴方の御悶えになるのも無理はないと云った女の答がこの上なくうれしく思われて居た。

        (八)[#「(八)」は縦中横]

 家の宝の様に思って居る美くしい人達を送り出した山の手の家では火の消えた様に急にヒッソリして噂はいつも海辺の家に行った人達の上にかかって居た。東の対の光君の部屋では残った女達がひまな体をもてあましたようにいつもより倍も念入りに化粧してあっちに一かたまりこっちに一かたまりと集って海に行った人の噂をして居る。
「私はあの海辺に行った人達がうらやましくて、あんなに美くしい景色のところで美くしい方と一所に暮して居たら、マア、どんなにたのしい事だろうと思うとネ」
 髪の短い女が云うと、
「私は行かなくってよかったと思ってますの、なぜって云えば、
『人里には遠く前にははてしなく大海原がつづいて夜になれば松風の音許りになってしまう、風のひどい時は枕元まで浪が来る様で』
とこの間の文にありましたもの」
と云う女はおとなしそうなあんまり小才のききそうもない女である。
 ひまな女達はあけくれ人の品定めや化粧のしかたの工夫やらで日を暮して居る。西の対の紫の君の部屋では急に母君のところから「海辺の見はらしのよい家が出来たから少し気散じに行っていらっしゃい」
と云われたので女達は大さわぎをして居る。乳母は女君がいやだと云って大変こまるので、
「ネー、モシ、貴女はどう御思になりますか。私はきっと光君があんまり何なので少しの間ほとぼりをさますようにとお思いになってなのでのことだろうと思いますから御出で遊ばした方がようございますよ」と云ったので、
 初めは首を横にふって居た女君もそれではとうなずいたので急に仕度にとりかかっていよいよい
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