りおこりの起ったように立った光君は、
「御免下さい」
と云ったまんまその怒と、はずかしさと悲しさの三つの思の乱れにふるえながら東の対にかえってしまった。くらい灯のかげに坐った光君は、
「まるで獣のような女だ! だれがたのまれたってあんな女を、
人を馬鹿にして居る、私は自分の胸の中に保って居る彼の美くしい貴い人まで馬鹿にされたような気がする」
などとげきして居たが心がしずまるとともに、今日の行っても紫の君のこなかったこと又いくら文をやっても錦木をたてても何のかえしさえして呉れない美くしい人のことを思ってかぐわしい香の香にひたりながらふるえるようなさみしさとかなしさに涙をながして居た。くらい灯にそむいて白い頬になみだをながして居る光君の姿は常にもまして美くしいあわれなもので有った。
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かゝる夜をなく虫あらば情なき 君も見さめて物思やせん
かなしみのはてに□□[#「□□」に「(二字不明)」の注記]しみおぼろげの 死てふ言葉にほゝ笑みぬ我
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こんなことを小声に云いながらたえられないように自分の胸をしっかりとだいて香の煙の消えて行く方に心をうばわれて居る。
(四)[#「(四)」は縦中横]
此頃の光君の様子はまるで病んで居るようで朝から晩まで被衣をかぶって居られる。どうかして気をまぎらせたいと僧を呼んでお経をよませたり自分でよんだりして居られたけれ共有難い御経の文句も若君の心はなぐさめる事が出来なかった。さっきまでお経をよんで居た声がパッタリ止んでから今までよっぽど立つけれ共身じろぎする様子さえもないので年かさの女はそうとそばにすりよって様子をうかがって居たがやがて衣ずれの音を気にしながら元の座に帰って来ていかにも心配そうにうつむいたままで居るので女達は、
「どんな御様子でした、御寝になってるんでしょうか」と云うと只女は、
「御可哀そうな事です」と云ったきりで涙を流して居る。外の女達も人にかくして思いなやんで居る心根をいじらしがって化粧のはげるのも忘れて居た。ことに久しい間ついて居る女達なぞは、
「ほんとうにあの紫の君は憎い方だ、あの方さえやさしい心を持って居らっしゃれば君様を始めこんな悲しい思をしないものを。あんな美くしい御顔であんな強いお心を持って居らっしゃるとはほんとうに」と悪口を云って居ると、
「そんなに悪く云うものではない、その強い所が彼の人の何よりも尊いところだと私はよろこんで居る。だれかの様な女は私はすきでない」
と思いがけない光君の声がしたので女達は悪いことを云ったと思って穴にでも入りたいような気持になった。それから間もなく光君の泣いて居るらしい気合[#「合」に「(ママ)」の注記]がするのでさっきの事でよけいに思いがましたのだろうと思って若い女達は「お可哀そうに」と重なり合って泣いて居ると、
「世の中に私ほどはかない事をたよりに生きて居る人はないだろう。私はもうじき死んででも仕舞う」
と云う言葉の末は涙にききとれないほどであった。日の落ちるまで光君は淋しさ、悲しさにたえられないと云うようにして居られたが夜に入ってから只一人うつむき勝に病上りのようにフラフラしながら細殿をあてどもなくさまよって居るといきなり女らしいなまめいた香に頭を上げて見ると光君の躰は目に見えない何物かに引かれて西の対へ来て居た。光君は去りにくい心持になって若しや彼の人の声はしないかしら、童にでも合えばなどとあてどもないことをたよりにしずまった細殿を行ったり来たりして居ると傍の部屋ではしゃいだ女の声で高らかに人の噂をして居るのがハッキリ聞える。
「この間の宴の時に弟君の下に居た方をお知りかえ、何と云う妙な方だったろう」常盤の君の声である。
「誰だって気がついて居りましたでしょう」
「中びらな御かおで」
「お歯がらんぐいで」
「出目で」
「毛がおうすくて」
「お色がくろくて」
と別々な声で云って崩れる様に笑って居る。此の間の晩の事を思い浮べて又今の話をきいて身ぶるいの出るほどいやな心持になった光君はそこをはなれてしずかに更けて行く庭の夜景色を欄干によって見て居られたがさとくなった耳にフト何とも云われなく美くしい琴の音がひびいて来た。かすかにごくかすかに夜の空気の中をふるえてつたわって来るその音。――白金の矢の様に光君の心をいた。光君の足は自《おのず》と動く。耳をすまして体は少し前かがみ、足をつまさき立ててかるくはかどる。一足――一足、一足毎に近づく音はますますさえる。魂は飛んでもぬけのから、もぬけのからのその体を無形のものは益々誘う。飛んだ魂は、夜闇の中に、音に添うてはパッとはなれ、はなれてはまた添い、共にもつれてクルクルクル見えないところで舞の振事、魂がその音か、その音が魂か、音に巻かれて魂はますますとんで行く。とんでとんでとびぬいてやがてもどった魂をもとにおさめてハッときづけば、無残、しとみ戸はとざされてその中から琴の音、ぞっとするような、うっとりするような、抱えたような、投げたような、海の中に柳が有ったらお月様のかげの中に身をなげてしにたいような、立って動かぬしとみ戸に影うすくよって聞く人は声なくて只阿古屋の小玉が頬に散る。余韻を引いて音はやんだ、人はまだ動かぬ。
(五)[#「(五)」は縦中横]
身じまいをしてかがやく様に美くしくなった姿を几帳の陰になつかしいうつり香をただよわせて居るのは此の部屋の主わずか十六の紫の君である。たきしめた白い紙に象牙細工のきゃしゃな手を上品に手習をして居る女君の様子はたとえられない様な美くしさである。まわりに居るものは乳母とその娘と外に四五人みな身ぎれいにして居ながら常盤の君の部屋の女のようにはでな所はみじんなくじみにしっかりした風の見えるのはかよわい女主人をもりたてなくてはと思う心づかいの結果であろう。女達は傍に女君の居るのもかまわずに此の頃の光君の様子等をいろいろと話し合って居る。少しでも云ったら女君の心は動くだろうと思っての事。
「御両親さえおいでになったら今頃は女御でいらっしゃったかも知れないのに御定命とは云えあんまり何でした」と一人の女が云う。乳母の娘は、
「ほんとうに、もう御年頃でもあるし私達が御つき申して居ながら姫様御一人どうすることも出来ないと云っては御亡くなりになった方にも相すまないし、又こんなところのことですから光君を置いては他に似合わしい方もいらっしゃらないし」
と几帳の影を見ながら云うと他の女達もが、
「ほんとうに私達はそればかりが心配で」
と云うあとをひきうけて、
「だれでも思って居る事です、まして先の短い私は命のうちに姫様の御婚礼の式のある様にとどれだけ祈って居るか知れません。何ぼ何と云っても姫様の様ではほんとうに困りますけれ共また常盤の君の様でもネ」
と遠慮のない乳母はあんまりずけずけした事を云うので娘は袖を引いて、
「マアそんな事を云うものではありませんよ。上様(兄君)だって『この方は近頃の女に似合わないかたい心を持っていらっしゃるたのもしい人だ。私の奥さんにしても恥しくない方だ』なんておっしゃったほどですもの誰だって姫様を悪く思ってやしません」
などと云うのを几帳の陰できいて居た姫は馬鹿にされたようないやな気持で居た。それから女達の話は急に変って常盤の君の噂になった。
忍び合って通っていらっしゃるかかりうどの御兄弟が弟君の来て居らっしゃるところへ又兄君が知らないでしのんでおいでになって大騒をしたの何のと面白がって云って居るのをきいて女君は浅間しい事だと悲くて、
「どうぞその話はここだけでよその人に話すような事はしないでお呉、私の恥にもなることだから」
と云ってすすり泣きをして居られるので女達は申しわけのない様に一人立ち二人立ちしてあとには乳母とその娘ばかりが残った。乳母は今の中にと思って女君のそばによって几帳をすっかり立てまわして声をひそめて、
「姫様貴方御考えになりましたか」
と生真面目な様子できく。女君はまぶたがうす紅になって、艷な顔をそむけるようにして、
「幾度云っても同じ事」
と絶え入るように云って扇で顔をかくしてしまわれる。その様子が又なく可愛いので強いことも云えず、ぐちっぽく一つことを二度も三度もくり返してはたから見て居る自分達の心もとなさや、後のためにもなどと久しく話していたが結局は光君によい返事をするようにとすすめるのでだまってきいて居た女君は眉の間に決心の色をひらめかせながら、
「御前は私に心にもない事を筆の先だけで云えと教えるの、御両親は私にそんな事を教えるようにと御前をつけておおきになったのだろうか」
いつにないするどい調子なので乳母はまごつきながらわびる様な声で、
「どうぞ御怒り遊ばないで下さいまし、自分の先が短いので息のある中に御身もきめてしまいたし私どもあんまり心配なのでつい申し上げたのでございますから。そんなに立派な御心とこんなにお美くしい御姿とを御二人に御見せ申す手だてがあったら」
と泣き伏してしまったので紫の君も、
「そんな悲しい事は云わないでお呉れ、私はたよりない身なのだからも少し立ったら、黒い着物でも着ようと思って居るんだから」
と泣きながらも取り乱した風のないのを乳母は又「何と云うけなげな方だろう」と思った。女君は額髪をぬらしたまま被衣をかけて身じろぎもしないでいらっしゃるので乳母は今更のように悪い事をしたと思ってそっと几帳の間から中をのぞいてはホッと吐息をついて居た。日暮方、明障子を細めに小さい手がのぞいてパタリとかるくたおれたもの音にそれと察した。女達は美くしい錦木の主とつれない紫の君の上を思って自分がその人だったらなどと思う女もないではなかった。送られた女君はそれを一目細い目を開いて見ただけで童のおもちゃにと何にも知らない小供の手にゆずられるのであった。
(六)[#「(六)」は縦中横]
長い間うつらうつらとして寝て許り居た光君は熱の高い時などにはききとれないような声で、
「紫の君、紫の君」
とうわごとを云うほどなので女達はみんな、
「何の因果のこんなうきめを見るのだろう」
とその声のきこえる毎にうつむいて額髪をぬらして居た。乳母などはその声をきくと一所にふるえた声で、
「何と云う方だろう、何と云う方だろう」
と云って西の対をにらんで居た。熱はなかなか下らないでうわごと許り云って居るので母君は心配して、
「この里の東の海辺の家は大変景色がよいそうだから
そこへ行くようにすすめてお呉れ」
と云ってよこしたので乳母は、
「『この里の東の海辺の家は大変よい景色だそうだから行って見たら』と西の対から云っておよこしになりましたから行って御覧になりませんか」
と云ってすすめると光君は青ざめて凄いまで美くしさのました顔を上げて、
「そんなむごい事は云わないでお呉れ。どうせ死ぬ命ならせめてあの人の居る家で死にたいのだから。私はどんなにそれをのぞんで居るだろう」
と云って目を閉じて涙を流して居るので、
「じょうだんにもそんな事をおっしゃってはいけません。どうぞ貴方の御身御案じ申し上げて居る多数の家の人のためにとお思になっていらっしゃって下さいませ、キット私はあとから彼の方もすすめてあちらの家にあげる様にいたしますから」
と二日も四日もかかってすすめたので、
「それではキットそうしてお呉れ私は行きたくもないところへそれ許りをたのしみにして行くのだ。若し約束が違えば目を開いて二度お前の顔を見ることはないだろう。じょうだんだと思ってきいてお呉れでない」
とさんざん物悲しい事をならべたあげくとうとう行くことに返事されたのでにわかに一所に行く供人をえらんだり何かかにか用意するのに一週間許りは夢のように立っていよいよその日になった。美くしく化粧した光君の姿が車の中に入った時あとにのこる女達は急になさけない気持に、
「お大切に遊ばす様に」
「あんまり御歎きにならない様に」
「ここに残って御身の上を御案じ申しあげて居るものを御忘れなく」
な
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