分でなくては朝の化粧もしないほどの光君の心を、物狂わしい人の心とは知りながらもこの上なく嬉しく思って居た。人なみ以上の心を持って居る人はその世話のしぶりにも人並以上のところが多かった。年とって世なれた乳母さえもその細く親切に気のつくところ、しずかな様子でよくききわけさせることなどはこの上なく感心して涙を流しては女の手を取ってよろこんで居るのであった。人々の人望はこの女二人の身のまわりに集って光君の話の出る毎に紅のことが賞えられた。
 けれ共女は若し光君がなおってしまった時に自分のつくした真心を思い出して呉れるかどうかと云うことが女の心をはなれることのない心配でもありかなしみでもあった。

        (十三)[#「(十三)」は縦中横]

 この世の中に効の有ると云われる祈り、まじないは金目をおしまずに行われた。広いむな木を一まわりしてやがて向うの山かげに消えて行くような読経の声や天井裏の年経たいたこの耳をふさいで身ぶるいする魔のものばらいの絃の音、そうしたしめった、重々しい声や音ばかりがこの館にみちてしまった。日に幾人となくみこや僧はその白かべの館を訪う、その度に人々は下にも置かぬようにもてなしてその祈りやねがいの甲斐があろうがなかろうがかえりのひきでものには銀と絹、これも一つは物狂おしい光君への供養(まだ死にはしないが)と母君達が思ったのである。いくら仏の道に入っても物食いでは生きていられぬ人間の僧、まして近頃は生きて居るかてよりも多くかがやくものをのぞむ僧も一人や二人ではない。その引出ものを目的に、もらったあとは野となれ山となれ、仏を金の道具につかって「私は諸国修業の僧でござります。若君の御不吉をききまして親御の御かなしみも察せられ出来るかぎりは仏にもねがって見ようと存じまして」
 殊勝げなかおをして人に通じれば、すぐに持仏堂、経をよみながら胸の中では引出ものの胸算よう、思わず気をとられて経文を一回間違いびっくりきづいてせきばらいにごまかしてモニャモニャモニャそれでも傍の人は知らぬかおをして居る。やがて一時間よむところは三十分にちぢめて珠数をつまぐって今更のように仏にいのるのは、
「なにとぞ引出物の沢山ございますように」
と云うことばかりで有る。うやうやしく女のもち出した引出ものを一度はとびかかりたいのをがまんしての辞退、心の中でひっこめるきづかいなしと思ってなのである。こんな犬のような僧も少なくはなかったが、心から、その若君の上をねがったものは必ずしも一人や二人ではなかった。
 馬鹿な子ほど可愛い親心、まして心も見めも美くしい我子が急に物狂おしくなったのを見て居る母君の心は却って自分の気が狂いそう、またたく燭の灯にその枯れたようなかおをてらしながら、
「ほんとうにどうしたらよかろう、神さまもわりあいにはまもって下さらず……彼の人もなまじ姿や心が美くしいからそんなかなしいことになったんだろう、――もうまにあわない、何と云ってもなってしまったことだから」
 こんなことを母君は云って居た。そばの女達は、「ほんとうにあさましいことになってしまいましてす、まるで私達の園の美くしい花が一夜の嵐にみんな散らされてしまったあとのような心地に――」若い女はかおを赤めながらこんなことを云って居た。
「どうにかしてなおせないかしら、まるで私の気が狂ってしまいそうだ。もうじき五月雨にもなるものを、マア、あのじめじめした雨の降る日に一日中一晩中、魔神の手なぐさみにされて居るように狂うあの人のことをきいたり見たりして居ることを思うと……」
 しずんだいんきな声でこんなことを云いながら涙をこぼして居た。女は何も云われないほど気がふさいでしまって居るので皆てんでに溜息をついたりかなしいうたをうたったりして居る、只どうしようどうしようと思うばかりでそれをなおす手段などと云うものは思われないもので有った。
 東の対では女達がいくら沢山居ても光君は紅と乳母にほか世話をさせないので只手をあけて淋しいかおをして御経をよんだりいのり文を書いたりして暮して居る。光君はあかりをハッキリさせることはこの頃大変きらいになったので明障子も生絹にかえたので昼中でも部屋の中はうすぐらい、その中に香はめ入るようなかおりを立てて居る。紅の姿や乳母はすっかりおとろえた形になってしまった。やせてつかれた紅はその姿がますます美くしくなった。
「夢の国へ――、夢の国へ、私はあこがれて居るのに」
 人形を抱いたまま美しく化粧した光君は云って居る。
「あの衣をしたててそして着せて御上げ、それから髪も結ってネー、マア、あんな可愛い声で笑って居る、うれしいから? 何だか分らないネー、桐の葉がしげって、夏が来て――、うれしい? かなしい? なつかしい方」
 わきに居る紅と乳母はソッとかおを見合せ
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