ずれの音がきこえたりかるいさざめきがもれたりして居た。白い手はかすかにふるえながら障子に掛った、細目にソーと引いて中をのぞくと美くしい几帳が沢山立ててあってそのわきから美くしい色の衣の端がチラチラとのぞいて居る。光君の心は浦島子が玉手箱を開ける時の様に震えた、彼の衣のどれが彼の人だろう、とすぐに入ってその人のかおを見たい様にも思ったけれ共中はまだ燈火もつかず、人のかおもハッキリ見える明るさである。小胆の光君は思い切って中に身を入れる事は出来なかった。せめて燈火の灯ってからとソーと障子をたてて誰か自分を見ようとして居なかったかとかるい恐を持ちながらその前の階から葉桜のしげる庭へ下りた。夕暮のしめった色は木の葉の間々庭草の間々からわいて種々の思いを持った人の身のまわりを包む、光君は頭を深くたれていかにも考えあまった様にだんだん冷たく暗くなりまさる庭を歩きまわった。いろいろの思はしずかな空気と結び合ってわき出る様に歌になった。その美くしい立派な歌は惜し気もなく光君の口からもれて桜の梢に消えて行く、沢山の歌が空に飛んだ時対いの屋にポッと一つ生絹の障子をぼかして燈火がついた。光君の眼は嬉しさにかがやいた、歌の声を止めて一つ一つふえて行く燈火の光を見つめて居た。自分の目ざす部屋には中々燈火の光が見えなかった。
「マア何と云う察しのない事だろう、私は彼の人の部屋には一番先に燈火の光が見える様にと祈って居るのに彼の可愛ゆらしい童も私の心は知らない」
誰にもはばからず云った一人ごとも歌声と同じように桜の梢に消えた。小供の様に待ち遠しがる光君は目でも瞑って居たら一寸でも早くなった様に感じるかも知れないと、かるく目をつぶってうす墨でぼかした様に立って居る桜の梢に身をよせた。廊を歩るくかるい足音や小さい童の女達にからかわれて高い声を出してかけて行く音などがともすれば流れ出しそうになる光君の涙を止めて居た。時々そうと目を開いて彼の人の部屋の障子を見たけれ共なかなかなつかしい様な燈火のかげは見えなかった、その度に光君の悲しさはまして行った。三度目に目を開いた時美くしい灯かげは障子を美くしくそめて居た、光君は嬉しさに満ち満ちた身をおこして元降りた階を昇った。そして又もとの様にそうっと明障子を引いて見た。沢山の女達は湯殿に行ったと見えて二三人の女が居るらしいなつかしい衣のうつり香と白粉のかおりと衣ずれの音は仄赤い灯の色と交って魂の遠くなる様に光君の身のまわり心のまわりを包んだ、戸をあけた人はまだ思い切って几帳の中に入ることは出来なかった。いきなりサヤサヤと云うかるい衣ずれが耳のきわでひびいた、夢中でつと身を引いた光君は障子をしめてそとに立って居た。
「夜になってから」
光君はそう思って光君は西[#「西」に「(ママ)」の注記]の対へ自分の部屋に歩をうつした、歩きながら、
「こんなに思って居ながら自分は何故彼の人の部屋に入り込むことが出来ないのだろう」
と不思議にふがいない様に思いながら自分の部屋の戸を開けた。そこには乳母と女達が四五人丸くなって世間話をして居た。いきなり光君が入って来たので女達はきゅうにバっと開いて、
「マアどう遊ばしたのでございますか」
「彼の方はどう遊ばしました」
と云う言葉はつづけ様に女達の口から出た。光君は恥しそうに、
「私は――笑っておくれでない、私は何んだか恐ろしい様で中に入れなかった、夜になってからでも行こう」
と云ってくるりと身をかえして几帳のかげにかくれてしまわれた。
女達は目を見合わせながら、
「まアなんと云う幼心な御方なんでしょう、お可愛いいこと」
などと云い合って居た。夜になった、光君はそうと几帳のかげから出て、
「又行って来る、また只かえって来るかも知れない、私見たいなおく病ものは又とないだろうネー」
などとかるい口振で云って微笑を浮べながら出て行った。後を見送った女達は、
「今日はまア何と云う好い元気で居らっしゃるんでしょう、いつもこんなでいらっしゃるといいんですけれ共ネー」
「ほんとうにですよ、今度いらっしゃって又|無情《つれな》くされていらっしゃると又どんなにお歎きになるかそれを思うと私はたとえ様もないほど悲しいんです」
と乳母などは云って居た。
光君は障子の前に立った。ソーと引いて思いきった様に身を入れて几帳の中へ身を入れた。女君は後向になって机によって何か余念なく書いて居る。手のうごく度に美くしい衣ずれの音のなつかしいうつり香を送る。光君はとどろく胸を幾重もの衣につつんでしのび足に紫の君の後に近づいた。そしてソーとそのすぐうしろに立った、まわりに一人も女が居ない。男君は女君は自分の居るのを知らないのだと思って居た、けれ共からだのすみずみまで鋭い神経の行きわたって居る女君はその高い衣の香と衣ずれの音と
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