)」の注記]もう一度もうわごとを云う様なことはなかったけれ共悲しさはますますひどくなりまさって行く許りであった、かくして居ようと思った乳母も、心配で心配でたまらなくなったのでとうとう山の手の家に知らせた。母君などはもうとっくに紫の君はなびいて居て帰ったらすぐ御婚礼の式が出来るのだろうと思って居たので驚き様は一通りのものではなかった。その日の内に返事が来た、それは何はともあれ早速こっちの家につれて来る様にと云うのであった。乳母は早速男君にかえる様にとすすめた。光君はだまって頭を横に振って居た。乳母は幾度も幾度も口をすくしてすすめると、
「私はどんなことがあってもこの家は動かない。私は死ぬ時にはあそこの此の上なく悲しくこの上なくなさけない思出をのこした椽に臥れて死ぬのだ、私は早くその時の来ることをねがって居る」
 これだけ云ったきりあと幾度すすめても幾度さとしても同じであった。乳母はしかたなしにそのことを山の手の家に云ってやった。母君は「それでは気の向いた時に帰る様に」と云って来たので少し安心して光君が自分から帰ろうと云い出す日を待って居た。その月も末になった頃、女君が山の手の家に帰ったと云うのをきいて急に里心のついた光君はその翌日すぐ車を仕たててあわてた様に山の手の家に帰って仕舞われた。一時に美くしい二人の主を失った家は元の様にあけても暮れても戸は占められて留守の老夫婦がその大きな家の主であった。

        (十)[#「(十)」は縦中横]

 山の手の家に帰った光君は気抜けのした様にだまって人に顔を見られるのをいとって居た。たびたび西の対の母君のところから見舞の手紙が来ても見たきりで三度に一度ほか返事はしなかった。紅や乳母以外の人には一言も身の淋しさや悲しさを云わなかった。時々女達には、
「彼の人はどうして居るのだろう、私は心配で仕ようがない」
などと云う位のものであったので女達はもうきっと御あきらめになったのだろう位に云い合って居たけれども中々それどころのさわぎではなかった。光君はどうせ沢山の人に云ったところで自分の満足する様になぐさめて呉れるではなし又それについて身分相当に力をつくして呉れると云うのでもないから甲斐のない事だと思って居られるので、胸ははりさける様になっても乳母だけにほか心の中は打ち合ける事をしなかった。思いに思い考えに考え抜いて我慢の出来ない様になった弟君は、
「どうぞあの人の部屋につれて行ってお呉れ、只あの人の部屋に行った丈で満足するのだから」
と云われたが乳母はどうしたものかと考え込んで一寸には返事をしないで居ると、
「それもいやなのか、御前は思ったよりたよりにならない人だった。私はけっして彼の人を苦しめる様なことはしない、私はあの人を死ぬほど思ってるんじゃないか」
 乳母はまだだまって居る。
「お前はまだだまって居るのカエ。私は自分の命のもう長くない事を知って居る、思い出にどうせ死ぬ命ならと望んで居るのにそれさえお前は許して呉れないのか、私は自分の生の母よりも御前をたよりにして居るのに」
 光君の目には涙が出て唇はかすかにふるえて居る。
「私はあの方の乳母に対してあの御方の部屋に御つれ申すことは出来ませんが、道導べに柱に赤い糸を結びつけて置きますからそれをたよって御出になれる様にいたして置きましょう」
 乳母はようやっと答えた。
「それでは夕方から行こう」
 弟君は嬉しそうに目を輝して居る。フックリと形よく肥えていつもさくら色した頬や、若々しく輝く両の瞳が生れつき形の好いかお立ちをたすけてその美くしさは若々しい力のこもったものであったのが、この頃は頬は青くこけて瞳は怪しい曇りを帯びてにごって香う様な鬢の毛許りがますますその色をまして居る、物凄い、さむい様な美くしさである。
 光君は、朝夕鏡を見る毎に日ましにつやをます鬢の毛、日ましにこけて行く両の頬を見て淋しい微笑をうかべて居た、その衰えてますます美くしさのました体をかかえて光君はどんなに日影の斜[#「斜」に「(ママ)」の注記]くのを待ちあぐんで居ただろう。ボンヤリと脇息によってあてどもないところを見つめながら小さい吐息をついて自分の不幸な身の上を思って居られた、その様子を見た女達はこんなにお美くしい方をどんな方でもいやにお思いになるはずはないのに彼の方はほんとうに妙な御方と云い合って居た。夕方になった、待ちあぐんだ光君は幾日ぶりかにその身を部屋のそとに見せた。光君は長い廊を角々の柱に結びつけた赤の糸をたよりにたどって行かれた。道しるべの紅の細糸は親切に光君を迷わすことなく紫の君の部屋の前まで導いて来た。その人の部屋の前に立った時、光君は今更の様に胸をとどろかせてぬり骨の美くしい明障子の立った様子を見た、何の音もなくしずかな部屋の中には時々柔い衣
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