だん衰えて行く若君の様子を心配しないものとては家の中に庭の立木位のものであった。
「どう遊ばしたのでしょう又御悪いのか知ら」
「よく伺ってお祈りをしてもらうかお薬を差し上げるかしなくては大変な事になるかも知れませんヨ」
などと云う不安心な言葉はよるとさわると女達の口からもれた、乳母は日に何度となく、
「どうぞおっしゃって下さいませ、私の命にかえてもと思って居る君様がこんなでいらっしゃっては――少しは私の苦労や悲しみをお察し下さいませ」
と涙を流して拝む様にしてたずねても只、
「何ともない、時候の変り目で着衣もうすくなったし、又私のいつもの夏やせだから心配しないで御呉れ」
と云う許りで日許り立って行った。山の手の家から時々来る使はいつも必ず母君と常盤の君の手紙を持って来るのであった。三日目の今日来た男は例の手紙を取り次の女に渡しながら、
「お前さんはここに居る事だから知りなさるまいがこの頃常盤の君はお腹の工合が変でネ、そのこんど生れる嬰児《ヤヤサマ》をおっつけられると困るのであの御兄弟もこのごろはいたちの道切りと云うわけなので、おっつける人を今から一生懸命にあさっておいでになると云うことだ、いやはや恐ろしいことだ、桑原桑原」
と云って居るのが部屋が浅いので光君の耳まできこえた。持って来た手紙はいつもの様にいや味たっぷりなものであった。光君はそれをポイとわきになげて再び見ようとは一寸も思われなかった。この間の夕にあの美くしい女君の口から、
「心から」
と云う言葉をきいてから光君は悲しみのあまり驚きのあまり、この頃は魂のぬけた様に何を考えて云おうとしても思は満ち満ちて居ながら順序を立てて言葉に云うことは出来ないほどになってしまった、それで居て、
「心から」
と云った其の声と姿の忘られないのをどんなに若君は悲しがったろう。七日、十日と立つと気の狂う許りにたかぶった神経も段々しずまると一所に前よりもはげしい悲しみが光君をおそって来た。明けても暮れても光君の耳には、「心から心から」とささやかれて居た。或時女達に向ってきいた。
「つらいこの上なく辛い思いをして生きて居るのと死んで仕舞うのとどっちが好いだろう」
女達はお互に顔を見合せながら、
「私は最後に少しでも望みがあれば生きて居りますが、それでなくては死んでしまいます」
と答えた女が多かった。
「誰でもそうだネー、私が今急に死んだらお前達はどうするだろう、お墓の中からのぞいて居たら面白いだろう」
とじょうだんの様に云った光君の言葉をきいた女達は心の中で、こんなにやつれていらっしゃるのだから何とも云われないとたよりなく思いながら、
「そうしたら女達はみんな黒い着物を着て髪を下してしまいますでしょう」
と年かさの女は答えた。
「お前方のなった尼さんは黒い着物の下に赤の小袿をかくして髪を巻き込んでおく位のものだろう。私が死んでしまった時にほんとうの真心から黒い着物を着て呉れる人はこの広い世界に一人も居ないのだ」
そんな事を話した夜から光君は大変熱が上った。うわごとは絶えまなくもれた、その思って居ることを正直に云ううわごとは一言でも半言でも皆紫の君のつれなさを嘆いて居るのであった。乳母は悲しみと怒りにふるえながら、
「まだ彼の人は意地をはっていらっしゃると見える。何と云うにくらしい方だろう、きっと化性のものにちがいない」
とまで罵った。子供の様にたえられない様にすすり泣きをすることもあれば、いかにもうれしげに肩をすぼめて笑うこともある。女達はきっと光君はもうもとの心にはかえるまいと思ってどんなに悲しがっただろう。うわごとを云って熱の高かった日は三日だけであった。四日目に熱はうそのように下って夢からさめた様に青ざめてつかれはてたように乳母によりながら、
「何と云う因果な事だろう、私はあの人に、『心から貴方につれなくする』とまで云われても、私はあの人の事が忘られない。お願だ、どうぞ忘れさせて御呉れ、あの気高い姿とあのかがやく様な顔を」
と云って三つ子の様に乳母の肩にかおをうずめて泣いて居る。乳母はもう胸が一杯になって何と云ってよいやらわけがわからず只その背をさすって、
「お察し申します、お察し申します。私ももう死んでしまいそうに悲しゅうございます」
と一所になって泣いて居る。
「何故私は忘られないのだろう、彼の人はなぜするどい剣で私を殺して呉れないのだろう、何故殺して呉れないのだろう。誰もなぐさめても呉れず、只一人で泣いて悶えて苦しんでそうしてたった一人で死んで行くのが私の運命なんだ」
ひからびた様になった年とった乳母の肩をしっかり抱いて泣いて、身をふるわせて悲しい思をうったえて居る光君の哀れな様子に女達は居たたまれなくなって顔をおさえながら出て行ってしまった。その□[#「□」に「(一字分空白
前へ
次へ
全28ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング