ながら恐れて居る」
そう云ったまんま光君は静に目をつぶって居て身動きもしないので女はもうお寝になったのかとそうと立とうとすると、
「もう行ってしまうの、もうねむくなったのかえ」
と思いがけなく若君が云ったので女は中腰になりながら、
「イイエ、左様じゃあございません一寸」
と云ってまた座りなおした。女も光君もだまったままややしばらく立ったが、
「もう行っても好い。そのかわり呼んだら来て御呉れ」
と云うので女は次の間に立った。光君はその夜一晩中イライラした何か強い刺げきを望む様な心持で夜をあかしてしまった。若君には紫の君も立派な御心だし、貴方の御悶えになるのも無理はないと云った女の答がこの上なくうれしく思われて居た。
(八)[#「(八)」は縦中横]
家の宝の様に思って居る美くしい人達を送り出した山の手の家では火の消えた様に急にヒッソリして噂はいつも海辺の家に行った人達の上にかかって居た。東の対の光君の部屋では残った女達がひまな体をもてあましたようにいつもより倍も念入りに化粧してあっちに一かたまりこっちに一かたまりと集って海に行った人の噂をして居る。
「私はあの海辺に行った人達がうらやましくて、あんなに美くしい景色のところで美くしい方と一所に暮して居たら、マア、どんなにたのしい事だろうと思うとネ」
髪の短い女が云うと、
「私は行かなくってよかったと思ってますの、なぜって云えば、
『人里には遠く前にははてしなく大海原がつづいて夜になれば松風の音許りになってしまう、風のひどい時は枕元まで浪が来る様で』
とこの間の文にありましたもの」
と云う女はおとなしそうなあんまり小才のききそうもない女である。
ひまな女達はあけくれ人の品定めや化粧のしかたの工夫やらで日を暮して居る。西の対の紫の君の部屋では急に母君のところから「海辺の見はらしのよい家が出来たから少し気散じに行っていらっしゃい」
と云われたので女達は大さわぎをして居る。乳母は女君がいやだと云って大変こまるので、
「ネー、モシ、貴女はどう御思になりますか。私はきっと光君があんまり何なので少しの間ほとぼりをさますようにとお思いになってなのでのことだろうと思いますから御出で遊ばした方がようございますよ」と云ったので、
初めは首を横にふって居た女君もそれではとうなずいたので急に仕度にとりかかっていよいよいつでも出られると云う様にそろったのは四日の後であった。
五日目の日、日柄も好しお天気も定まったからと云うのでいよいよ出ることになった。仰山な別れの言葉などをかわして車に乗った女達は尚残りおしげに時々車簾を上げては段々小さくなって行く館を見て居た、やがてそれも見えなくなった時には急につまみ出された様な気持で誰も話もしないので一人一人違った思を持って居た。しずかなあたりの景色や人の足音にいろいろの思の湧く女君は懐硯を出して三つ折の紙に歌や短い文などを細く書きつけて居た。女達もまねをするように紙を出したり筆をしめしたりして居たけれ共あんまり才のない女達は車のゆれる毎に心が動いてとうていものにならないのであきてしまって筆を持ちながら髪をさわって見たり、思い出した人の名を片っぱしから書きつけなどして居たので女君が、
「どんなのが出来たの、見せて御覧」
と云った時に、
「出来ませんけれ共」
と云いながら紙を出した女はたった一人か二人ほかなかった。
女達はしずかにおだやかな旅をつづけて海辺の家についた。
女君は海辺の家に行ってから二日立つまで弟君の居ることを知らなかった。
部屋も大変はなれて居るし女達もだまって居たのでしずかにして居る女君には一寸もわからなかったのである。
二日目の夕方、女君は縁側に出てしずかな夕暮の空気の中に灰色によせては返して居る波音をいかにもおごそかな心持を以てきいて居られた。段々波の底まで引き込まれる様な重い気分になって早く他界した二親の事から、この頃の事などを思い合わせて段々迫って来る夜の色の様に女房の心には悲しみが迫って来た。ジーッと海を見つめて居ると目にうつる万のものがくもって来た、冷たいものが頬を流れた。女君はたえられない様にうつぷせになってしまわれた。傍の木かげで男君が見て居様などとは夢にも思わなかった姫ははばかる人もなく心のままに悲しむことの出来るのを悲しい中にもよろこんで居られた。まだ木の香の新らしい縁に柳の五重を着て長い美くしい髪をふるわせながら橘の香の中につかって居らっしゃる女君の姿は絵よりも尚多[#「多」に「(ママ)」の注記]いものであった。始はつつましく声を立てなかった紫の君も心の中にあまる悲しみは口の外に細い細いすすりなきの声となってもれた。わきに見て居る男君はたえられなくなってかくれて居るのも忘れて、
「オオ美くしい、ま
前へ
次へ
全28ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング