のを忘れていつまでも居ると、そんな様なかん単の調子で暮して居たけれ共そこに住む人の心はそんなかんたんなものではなかった。一目見た時に、
「マア何と云う淋しい所だろう。私はこんなところに一日も居られないだろう」
と云って居られた光君が一日立つと誰よりも此の家が好きになって女達を集めては、
「アノマアまっさおにはてしなく続いて居る海を御覧、何と云う大きな美くしさだろう。それから此の真白い銀の様な砂を御覧、その間に光って居る赤い貝や青い石をアアほんとうに私はその美くしい貝や石をつないで彼の人の体いっぱいにかざって上げたい。彼の人が早く来れば好い」
などと何かにつけて紫の君の事を云い暮して居た。一日立っても二日立っても女君は来ないのでイライラした光君はわきに居る乳母にいきなり、
「返事は何と云って来た」
と云うと何の事やら分らないでマゴマゴしながら、
「返事、何の返事でございます。お文でもお上げになったのでございますか、私は一向存じませんが」
と云うと斜に座って居た光君はクルリと向きなおってけわしいかおをして、
「私はもう今すぐここを出て山の家に行って仕舞うから好い、すぐ仕度をたのんでおくれ。私はお前にだまされるとは思わなかった」
と云ってジッと顔を見つめて居るので乳母はウッカリ口をきいてはとだまって頭を下げて居たがやがて思いだしたように、
「分りました。年をとったのでついどう忘れをしてしまって。私が来る時にくれぐれもたのんで彼の方の乳母はどんなにもしてよこす様にするからとうけ合ったのでございますからもう二三日したら行らっしゃるに違いありませんですから」
と云うので、
「それなら好いけれ共どうぞ私の心も少しは察してお呉れ。こんなたよりない心をどうせ察しは出来まいけれ共」
などとそれからは乳母を相手にいろいろな悲しい事を云って沈みきって居た。夜になっても寝られなかった光君は当直の女の中で一番若い京の人の母親をもって居てこっちで生れた紅と云う女を呼んで自分はあかりの方に背を向けて真白に人形の様に美くしい女のかおをしげしげと見ながら、
「ネーお前どうぞ私のきくことに返事をしてお呉れナ」
とやさしい声で云われると女はうつむいて少し頬を赤くしながら、
「私に分りますことなら」と云う。光君は、
「それではきく、どうぞ正直に教えてお呉れ、思い上った心強い女を恋して自分のものにしようとつとめる男と、男の命をとるまでに心強い女とお前はどっちが悪いと思う」
と云うのは自分と紫の君の事を云うのだと女にはよく分って居るので何と答えてよいかと思い迷ってだまったまんま袴のひもをいじって居ると光君は涙声で、
「お前は女だから女の味方をして『それは恋する男の方が悪いのだ』と思いながら口には出しかねてだまって居るんじゃあないかい」
 女は其れには答えないで、
「私はお察し申して居ります。私は貴方がお悪いとは決して思って居りませんけれども紫の君もお心のたしかなたのもしい方だとこの頃になって余計に思う様になりました」
 光君はよろこびにはずんだ様な声で、
「お前もそうお思いかい、どう云うわけで」
「申し上げましょう。けれ共女のあさい考えで若し間違えて居りましたらどうぞ御許し遊ばして。
 私は此の頃の姫様方があんまり音なしすぎて何でも云うことを御ききになりすぎるのをいやに思って居ります。それにあの方許りはしっかりときまった御心でいらっしゃいます。御自分には御両親がないから今にも少し立ったら黒い衣でも着ようと思って居らっしゃいますし又、御自分は人の家にかかり人になっていらっしゃる方でございますからその自分のために関係の多い方に苦労をかけたり又、そうたいした後見の方もない自分にかかり合って居らっしゃる方だなどと云わせたりしてはすまないと云う御心なんでございますってよく乳母の人が云って居ることでございます。私はよけい御いとしい、たのもしい方だと思って居ります」
と云うと弟君も大層よろこんで、
「御前は若いからよく私の心も察して呉れる。彼の人の心はたのもしいとは思ってもつれない様子は恨まれる、若しお前が彼の人だったらどうする」
と云うと女は夜目にも分るほど赤いかおをして、
「存じません」
と云ってわきを向いてしまう。
「あんまり下らない事を云って仕舞ったゆるして御呉れ」
と云った光君は心の中で自分よりももっとはかない恋をした人が世の中にまたと有ろうかと思いながら、
「お前は私よりはかない恋をした人の話を知って居るかえ」
ときくと女は口ごもりながら、
「絵の中の人に恋した話や、夢に見た面影の忘れられなかった人などは世の中に多いときいたことがございます」
と云ってそっと若君のかおを見ると淋しい悲しそうな面持で、
「恋する人の心はこんなに悲しいものだろうか。私は紫の君に合うことをよろこび
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