で光君の後に居ることは知って居たけれ共、知らないように髪一条もうごかさなかったことは恋に盲いたようになった光君にはわからなかった。光君はソーと女君のわきに座った。女君はまだ下を見たまま手を動かして居る。男君はおちつききった女君の様子におどろきと悲しみを一時に感じながら、
「紫の君、私をお忘れにならないでしょう、どうぞその顔を上げて下さい」
女君の手はまだ動いて目はまだ下を見て居る。
「私はあなたに『心から』とまで云われました。それでもそれでも私は忘られなくて、忘られなくて、しょうこりもなく又来たんです、こりのないいくじのない男だと貴女は思って居らっしゃるでしょう、けれ共、恋する男の因果ですもの」
女君の手はとまって目は油断ないようにかがやいて居る。
「貴女はまただまって居らっしゃる、だれがその美くしい唇を封じた様にしました、誰が貴方、何故そんなに無情なくなさるの。私は今なこうにも涙はかれ悲しもうにも心が乱れて私はもう死ぬばかりになったんです、今、私は死ぬ事をどんなによろこんで居ましょう、私はよろこんでるんです、貴女のために死ぬことを」
涙を一杯ためて心のままを女君に云った光君は恐れる様に机の上に出た女君の手をとろうとした。だまってしずかに人形の様にして居た女君は光君の手をふりはなすと一時に卯の花の栢をスルリとぬいで生絹のまま袴を歩みしだいて唐びつの間をすりぬけて几帳のかげに見えなくなってしまった。取りのこされて気の遠くなった様にその行末を見まもって青ざめてふるえて居る男君はどんなに悲しかったのだろう。
「私の最後の望も絶えた、私の死ぬ時が来た、もう彼の人を再び見る時はないだろう」
主のない文机にぬけがらの様になった体をよせると目の前には白いかみに美くしく手習がされてわきには歌も沢山綴じられて居る、それをじーと見て居た光君の目からは今更の様に涙が止度もなく流れ出した。涙にぬれたかおを白い紙の上にふせて気の遠くなるほど泣いて泣いて泣きぬいた男君は、
「こんなにないても自分の涙の泉はなぜかれてしまわないだろう」と不思議に思われた。
心は段々と落ついて来た。それと一所に泣くよりも強い悲しみが胸をおそって来た。もう涙も出ない、光君の心は悲しみのかたまりになってしまった。
「私はもう二度とこの部屋に来ることはないだろう」
「オオなつかしいこの文机、なつかしいこの衣こう
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