衣ずれの音は仄赤い灯の色と交って魂の遠くなる様に光君の身のまわり心のまわりを包んだ、戸をあけた人はまだ思い切って几帳の中に入ることは出来なかった。いきなりサヤサヤと云うかるい衣ずれが耳のきわでひびいた、夢中でつと身を引いた光君は障子をしめてそとに立って居た。
「夜になってから」
光君はそう思って光君は西[#「西」に「(ママ)」の注記]の対へ自分の部屋に歩をうつした、歩きながら、
「こんなに思って居ながら自分は何故彼の人の部屋に入り込むことが出来ないのだろう」
と不思議にふがいない様に思いながら自分の部屋の戸を開けた。そこには乳母と女達が四五人丸くなって世間話をして居た。いきなり光君が入って来たので女達はきゅうにバっと開いて、
「マアどう遊ばしたのでございますか」
「彼の方はどう遊ばしました」
と云う言葉はつづけ様に女達の口から出た。光君は恥しそうに、
「私は――笑っておくれでない、私は何んだか恐ろしい様で中に入れなかった、夜になってからでも行こう」
と云ってくるりと身をかえして几帳のかげにかくれてしまわれた。
女達は目を見合わせながら、
「まアなんと云う幼心な御方なんでしょう、お可愛いいこと」
などと云い合って居た。夜になった、光君はそうと几帳のかげから出て、
「又行って来る、また只かえって来るかも知れない、私見たいなおく病ものは又とないだろうネー」
などとかるい口振で云って微笑を浮べながら出て行った。後を見送った女達は、
「今日はまア何と云う好い元気で居らっしゃるんでしょう、いつもこんなでいらっしゃるといいんですけれ共ネー」
「ほんとうにですよ、今度いらっしゃって又|無情《つれな》くされていらっしゃると又どんなにお歎きになるかそれを思うと私はたとえ様もないほど悲しいんです」
と乳母などは云って居た。
光君は障子の前に立った。ソーと引いて思いきった様に身を入れて几帳の中へ身を入れた。女君は後向になって机によって何か余念なく書いて居る。手のうごく度に美くしい衣ずれの音のなつかしいうつり香を送る。光君はとどろく胸を幾重もの衣につつんでしのび足に紫の君の後に近づいた。そしてソーとそのすぐうしろに立った、まわりに一人も女が居ない。男君は女君は自分の居るのを知らないのだと思って居た、けれ共からだのすみずみまで鋭い神経の行きわたって居る女君はその高い衣の香と衣ずれの音と
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