れることから、どんな感情も起らなかった。見上げた方の職人たちも、見あげはしたが誰も何とも云わずまた火の前で手をこすったり、地下足袋をパタパタやったりしている。
 なお暫くそうやっていて、サエは包の上から胸を起した。不図《ふと》うしろをふり向いた。椅子を運び出しながら特高の主任がこっちを見ていた。サエが振向くより前から、そこで窓にむいているサエの後姿を見ていた。それを感じ、サエは包をもって、つと窓際を離れた。階段の方へ三足ばかり歩いた。そしたら鼻の中を急につめたいものが流れた。サエは、下げている重い包のためぎごちない動作でコートの中でたたまっている袂からハンカチーフを出し、音高く鼻をかんだ。それは洟ではなかった。涙であった。
 サエはこのとき、いつかきき覚えていた「口惜しい涙は耳からなりと出るならば」という義太夫のさわりの文句を、はっきりと思い出した。そして、口惜しい涙は耳からは出ない、鼻から出る。サエは強くそう思った。そう思いながら、門松の笹の葉が注連《しめ》と一緒に風にざわめいている交通のはげしい大晦日の往来へ出た。

 夜に入ってからサエは、佐太郎夫婦の家へ行ってこの年を越す気にな
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