しかし、今夜のように、まさまで編みものをとり出しているのは、全く珍しい光景であった。
 一ヵ年余の未決生活の後、どんな心持で佐太郎はこの大晦日の夜の刻々を感じ、うけとっているであろう。サエは正月に向って五日前専吉が検挙されている今の自分の感情の逆な場合として自然そのことを思い、佐太郎とまさの気持がまざまざと分るように感じるのであった。
 両方とも飾編を終って、まさが紐に白テープをとおしはじめると、佐太郎がちょっとせきこんだような持前の喋りぐせで、
「そりゃ、黒いテープの方がいい」
と云った。
「――本当にね」
 素直にまさが同感し、手をやめて眺めていたが、やがて、
「いいよ、どうせじきに黒くなっちゃうから」
 そして、さっさとすっかり白テープをとおし、結んで、手のひらの上に両方揃えてのせた。
「いいじゃないの?」
 可愛い、むく犬の仔のような靴下である。サエは、順坊によく似合うとほめながら、
「何て、あんたがた夫婦らしいやりとりなんだろう!」
と愉快そうに笑った。
 去年佐太郎がやられたとき、まさは臨月であった。生れた赤ん坊の順子という名は、佐太郎が警察の中からつけてよこしたのであった。
 藍色の毛糸で大人の足袋カ※[#濁点着き片仮名「ワ」、1−7−82]ァーをあんでいる満子が、上気《のぼ》せたような頬で、
「――少しきれいすぎたわね、これじゃ商品になっちゃう」
 自分の体から編みものを離して眺めた。
「じゃ、そうしちゃいなさいよ」
「だめよ、色がこんな派手じゃ」
 サエは、今夜特別の気持で、編物をする二人の手元に眺め入った。満子は、編物の内職で自身の生計をたてているのであるが、去年の暮は豊多摩刑務所におかれている夫の悌二に上下つづいた毛糸のパジャマを編んで入れてやっていた。そのことをサエは思い起しているのであった。
 十時すぎて、年越しそばを食べようと云うことになった。
「いいねえ」
「何? かけ?」
「かけ?――やすくて美味いたねもんないかしら……」
「きつねがいい、うまいよ」
「じゃ、きつね! きつね七つ」
「わたし、云ってきます」
 サワ子が部屋の中から襟巻を口のところまでまいて出て行った。
 小一時間も経った時分、台所で、
「こんばんはァ」
と呼んでいる声をききつけサエが急いで下りて行って見たら、それは荒物屋の若衆であった。箒、まな板、ザル、庖丁。そんなものがところせまく並べてある前に、いかにもよくあったまった湯あがりらしい色ざしのおばあさんが小さく坐り、
「まさちゃんが見んけにャ……」
と云っている。まさの後から佐太郎も足音高く下りて来た。まな板と庖丁、箒などを夫婦で見て買った。
「まあ、何年ぶりじゃろ……よう辛抱しとったものなあ」
 サエは、袂を胸の前にかき合わせ、傍にしゃがんで買物を見ていたが、
「押しきりがやっと庖丁になったね」
と笑った。
「ほんと!」
 上り端の箪笥の上に鏡台がのっていた。サエがそこの電燈をひねり、鏡をみながら髪をかきつけていると、向い側の家の障子にもパッと燈かげが溢れ、人声がする。ポンプをもむ音も聞える。日頃は早寝の界隈も、今夜はざわめいている。ザーと勢よく水をつかう音がし、
「なんて、いいんでしょう!」
 台所でまさが新しい爼板《まないた》で何かきりながら、感動のこもった優しい声で云っているのがサエに聞えた。
「なんて、いいんでしょう! きずをつけるのが何だかこわいみたいだ!」
 その台所口からも、隣りの家の明るい風呂場のガラス窓の上に黒く人影が動くのが見え微かに石炭の煙の匂いが漂って来る。かれこれもう十二時であった。――

「そば、忘れちゃったんじゃないか」
 進が待ちかねたように云い出した。
「いや」
 目をしばたたきつつ、
「今夜は、待たせることをむこうじゃ勘定にいれてるんだ」
 佐太郎が説明したが、サワ子は自分が云って来た責任上当惑そうに、
「わからなかったんでしょうか」
と、皆の顔を見まわした。
「きつねを、たぬきとでもきいたんであるまいか」
「サワ子さんたら!」
 満子が編物をとり落すほど笑いこけた。サワ子は、プリントの仕事などさせられると粒の揃った細かい字が書けないで先ず閉口するたちであった。いつかもこういうことがあった。
 或る仲間が、もしかすると検挙される危険があるという場所へ出かけ、遂にやられた。そのとき、安否を見とどけるために別の仲間が一人ほんのちょっとはなれたところまで行っていたということがあとで知れた。その話をきいたとき、まさもサエも、
「何だろう! ただ見とどけたって、あとの祭りじゃないか」
と残念がった。ちょうどそこにサワ子も居合わせた。彼女は腹立たしそうに胸を張って、
「安否を見とどけるって――変ですわね、見とどけて、ああこれは否《ぴ》じゃわ、とそのまま
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