れることから、どんな感情も起らなかった。見上げた方の職人たちも、見あげはしたが誰も何とも云わずまた火の前で手をこすったり、地下足袋をパタパタやったりしている。
なお暫くそうやっていて、サエは包の上から胸を起した。不図《ふと》うしろをふり向いた。椅子を運び出しながら特高の主任がこっちを見ていた。サエが振向くより前から、そこで窓にむいているサエの後姿を見ていた。それを感じ、サエは包をもって、つと窓際を離れた。階段の方へ三足ばかり歩いた。そしたら鼻の中を急につめたいものが流れた。サエは、下げている重い包のためぎごちない動作でコートの中でたたまっている袂からハンカチーフを出し、音高く鼻をかんだ。それは洟ではなかった。涙であった。
サエはこのとき、いつかきき覚えていた「口惜しい涙は耳からなりと出るならば」という義太夫のさわりの文句を、はっきりと思い出した。そして、口惜しい涙は耳からは出ない、鼻から出る。サエは強くそう思った。そう思いながら、門松の笹の葉が注連《しめ》と一緒に風にざわめいている交通のはげしい大晦日の往来へ出た。
夜に入ってからサエは、佐太郎夫婦の家へ行ってこの年を越す気になった。
暗い梯子を軋ませて二階へあがり、唐紙をあけたら、火鉢をかこんでカリンの机の前に主人の佐太郎のほかにサワ子と進などという、会社の争議でクビをきられた時代からの親しい仲間がやって来ていた。
佐太郎は、火鉢へ炭をついでいるところであったが、入ってゆくサエを見ると、直ぐ、癖で激しく瞬きをしながら、胸を張った坐りようで、
「どうしたかね、差入れ、受けつけた?」
ときいた。
「まだまだそれどころじゃないってさ」
サエは立ったまま襟巻とコートを古風な箪笥の前へぬぎ、火鉢のそばへわりこみながら答えた。
「――五日ぐらいすりゃ、大抵いいもんだがな」
洋服の背中を窓際によせかけ、立てた両膝を抱えた進がゆっくり云った。
「――正月は休むからね……その調子だと七日ぐらいまで駄目かも知れないね」
佐太郎は組合の関係でやられ、今は病気で保釈中なのであった。
「おまささんは?」
「正月の御馳走を買いに行ったよ。――予定よりあまして帰れば、それで俺が散髪に行けるんだがな」
皆して喋っているうちに、サエは丸い顔をしかめ足袋の踵を片手でおさえながら、
「あんたのところにメンソレない?」
と云った。
「どうしたんだね」
「あかぎれ[#「あかぎれ」に傍点]がポッポして……」
サエは体をねじって片足だけ足袋をぬぎ、踵のあかぎれへ丁寧にメンソレータムをぬりこんだ。頬などの色艶はいいサエの顔にあわせ、そのあかぎれ[#「あかぎれ」に傍点]は大きくて、痛々しかった。
サワ子が、それを見て、
「あれ」
と羽織の袖口で口のはたを被うような恰好をした。
「どうしてまたそんなになるんだろ……」
サエは、
「毎晩お湯に行ければましなんだけれど……」
と答えながら、足袋のコハゼをかけた。あかぎれの原因はお湯に入るひまがないばかりではなかった。佐太郎しか知らないが、サエは一日のうちに、のべにするとどっさりの距離を歩かなければならないような種類の活動をもしているのであった。
間もなく、下で、
「おまち遠さま――おばあさん、どうかお風呂に行って下さい」
そういうまさの声が聞え、
「ああくたびれた」
二階へ来て、ぺたりと火鉢の前へ坐った。
「とてもひどい人でね――あのひとをかきわけるだけでもいい加減くたびれるわ。ネ」
そう云いながら一緒に行って帰って来た満子が、手編のベレ帽をとって、外套のまま坐った膝におき、寒さで赧くなった手の先を火鉢に出した。
「どうしたい? 俺、散髪に行けるかい?」
佐太郎が目ばたきしながら訊いた。まさはよっぽどくたびれたと見え、絣の羽織のわきあけから懐手をしたまま、首をたれ黙って合点をしている。
進がやっぱり、窓際にもたれたままその様子を見て、
「大分悪戦苦闘したらしいね」
と云ったので、皆がドッと笑った。すると、ぐったりしていたようなまさが自分から大きな声で面白そうに笑い出し、満子と二人で、やすいものを買おうと頭をひねった様子を話してきかせた。
一休みして、満子がメリンスの風呂敷包みから、派手な藍色の毛糸を出し、それを編みはじめた。まさも下から黒と赤の混ざったスコッチの赤坊靴下のあみかけをもって来て編みはじめた。
サエとサワ子はわきから顔を近くよせて自分もやって見たそうに眺め、進は居心地よさそうにはまりこんだ元の場所から、佐太郎はカリンの机の前から、二人の女の、速い、むらのない編棒の動きを見ている。
半分カサがこわれながらも、明るい電燈の光が人のつまった狭い六畳の端から端までを暖く照している。この電燈の下に、こういう顔ぶれが集ることはよくあった。
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