鏡の中の月
宮本百合子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)団扇《うちわ》
−−

 二十畳あまりの教室に、並べられた裁縫板に向って女生徒たちが一心に針を運んでいた。
 あけ放された窓々から真夏の蝉の声が精力的に溺らすように流れ入った。校庭をとりまく大きい樫の樹の梢は二三日前植木屋の手ですかされたばかりなので、俄かにカランと八月空が広く現れ、一層明るくまた物珍しい淋しさを瀧子の心に感じさせる。
 生徒たちに向って自分もやはり裁縫板をひかえて坐っている瀧子のうしろに床の間があった。濃い鮮かな牡丹色の小町草の花がありふれた白い瀬戸の水盤に活けてある。これも生徒の製作品である。夏の暑さと教室内の静かな活動とはお互いに作用しあって、ふと気がついてみると、いつか頭の中は休みない蝉の声ばかりになっているような気のする時もある。
 瀧子は永年の習練で敏捷に指先を運びながら、こうやって嫁入前の娘たちばかりが集って夏期講習をうけているのだけれど、そんなことを思ってもいなかった自分が、もしかしたらこの間の誰よりもさし迫って結婚の前におかれているのかもしれないと思うと妙な心持がした。
「縁を切った昔の女が、あなたを取って食うとでも言うんですか」
 話にもならんという風で、ハッハッハと闊達らしく笑いすてた山口仁一の黒い髭の動きが、まざまざと瀧子の眼に浮んだ。大きく腕をうごかして、瀧子が出した団扇《うちわ》で煽いだとき、上衣をぬいだワイシャツの脇から背が風で白くふくらんだ。率直と闊達、それを山口は補習学校でも評判のいい女教師である瀧子に対して自分のとりえとして示すのであった。
「突然あがったりして、無礼な男だとお思いになりませんかとも思ったんですが、僕としては、溝口ゆき子さんがあなたにお話し下さるにしても、どうもそれを待ってばっかりいずに、直接お会いして気持を分って頂く方がいいと思ったもんですから――つまりマア、言ってみれば、僕は年からいっても分のわるい求婚者といった立場ですからな」
 十日ばかり前のある晩、瀧子がひとり暮している二間の小さい家の夾竹桃の咲いている縁先にこの辺では珍しい白服にパナマ帽、竹のステッキをついた山口が訪ねて来た。妹が結婚して大陸へ行くまで瀧子は隣村に勤めていた。その時分、公の席では町の有力者の一人として間接に見かけたことも度々ある山口は、ゆっくりと内ポケットから名刺ばさみをとりだし、狭谷町青年学校主事、狭谷町醇風会理事、その他二つ三つ肩書を刷りこんだ名刺を瀧子に渡した。そして、ともかく縁端に花筵の夏坐蒲団を出して怪訝そうに応待しはじめた瀧子に、山口は結婚を申込んだのであった。
「あなたの聰明さや優しさは既に村でも定評があるんですから、僭越のようだが、却ってこういう僕のやりかたに真実を認めて頂けると信じているんです」
 瀧子は栗色っぽい柔かい髪がひとりでに波を打っている色白な額ぎわを素直に傾け、遠くはなれて坐りながら、山口の云うことを聴いていた。前の妻をヒステリーで離婚したというのや子供が二人あるという条件をも、瀧子は別に初婚である自分に対しての屈辱という工合にはとらなかった。瀧子が二十七までひとりでいたには、格別の識見があってのことではなかった。彼女の人がらが誰にも好意をもたれるにつれ縁談はこれまでいくつかあった。しかし、それはどれも地方らしく所謂《いわゆる》仲人の話で、感情のおだやかな、淋しがりでもなかった瀧子に特別の好奇心も起させなかったままに過ぎて来ていたのであった。
 山口が、よかれあしかれ仲介のひとの話では心持がそのまま伝えられないからと、自分から出向いて来た、そのことはなんとなく瀧子にこれまでの話とは異った一抹の新鮮さを感じさせるのである。
 溝口さんにも相談してと言って山口をかえしたあと、瀧子は土間で湯をわかし、髪を洗った。快く梳《くし》けずられてゆく長いたっぷりした髪を背中にさばいて、濡縁のところで涼んでいると、何心なく持っていた手鏡の中に小さく月がうつっている。畑のむこうの杉林の梢のところが黒々と瀧子の白地に朝顔を出した浴衣の肩のあたりを横切ってうつっていて、その上の空に月が皎々《こうこう》と輝きながら泛んでいる。しーんとした夜の縁端で鏡の中に迫って鮮やかな自分の生きている一人の顔と遠景をなしている月や森を凝っと見ていると、日中のきまりきった暮しの表面からでは見えない人生の刻み目があって、そのひとつが今夜珍しくも自分に呼びかけても来るように感じられて来るのであった。
 翌る日の午後、瀧子は汽車を二駅乗り越して、師範が同期の親友、溝口ゆき子の家へまわった。
「ごめんなさいね、暑いわねえ――」
 簾のかげで、早速オリーヴ色の重い袴の紐をときにかかる瀧子を親密さのこもった眼差しで見上げながら、ゆき子は、
「本当にあなたはいつも瑞々しいねえ、暑い時はなおさら綺麗だ」
 手早く井戸からくみ立ての冷たい水に梅酢をおとしてすすめた。瀧子は伊達巻姿のまま、息もつかずそのコップをあけた。
「ああ、やっとこれで正気にかえった! 御馳走さま」
 そして、ハンケチで生え際を押えながら、瀧子が、
「あなた、狭谷町の山口さんから、何か話きいているの?」
と言い出すや、
「アラ、もう聞いているの」
 いかにも他意なくはしゃいだ口調で、ゆき子は、
「でも私、実は困っちゃっているのさ」
 人のよい、嘘のつけない当惑の皺をよせた。
「あの山口さんてひとは、信用もあるし、よく出来た男なんだけれど、どうも一つこまったことがあってね、そいであなたのことをたのまれながらつい渋っていたの」
 瀧子は、我知らず団扇づかいを早めながら、
「ゆうべ、来たんですよ、突然」と云った。
「へえ。そうお? 元の細君だった女が、どんな女でも入れてみろ、きっと出してみせるって言っているっていう話があるんでね」
 真面目な友情から、ゆき子は「私、山口さんに言ったのさ、その点はどうなんですって、をれをはっきり整理してからでなけりゃ、私としては瀧子さんには話がもち出せませんて言ったんだのに――ふーん、行ったの!」
 ゆき子の好意はよくわかったし、それを出しぬいてひとり暮しのところへ直接来た山口の心底に何かいやな押しづよさが感じられるのであるが、元の妻であった女がそんなことを言っているということも、滑稽じみて莫迦《ばか》らしかった。
「そりゃあの人にしてみれば、あなたに承諾されれば全く申し分がないだろうけれど――私ひとつ女の側から訊いてみよう、ね、あなたが下らなくひっかかっちゃ私もくやしいもの」
 十時すぎて、たたんだ袴を風呂敷づつみにして持ち、かりた単衣帯をちょっとしめて帰って来た瀧子が駅の改札口を出ようとしたら、
「やあ、おそいですな」
 売店の横から立って、ワイシャツに上衣なし姿の山口が近よって来た。笑いの中に好奇心を現わして二人を見ている売店の女は、朝夕そこを通って出入りしている村人全体の顔馴染である。挨拶をして、そのままさっさと駅前へ出る瀧子を追って山口は並んで歩いた。
「実はさっきちょっとおよりしたんだったが、御不在だったから――きのうの話は、いかがです、お考えがつきましたか」
 瀧子は馬をはなした荷馬車が置いてある乾物屋の軒下に立ちどまってしまった。
「いずれゆっくり御返事いたしますけれど、今夜はもうおそいし、私も困りますから……五十八分でおかえりでしょう?」
「どうも――もうちっと僕の人格を信じて下すってもいいでしょう」
 ハッハッハと山口は笑ってタバコに火をつけるのであるが、瀧子はそこから一足も動こうとしなかった。
 山口の後姿が本当に改札口を入ったのを見届けてから、瀧子は何かむっとした心持で足早に家にかえった。狭い村の暮しの中で言われることは知れている。そんなことは知りぬいている山口として、することが気に染まないのであった。

 講習が終りに近づくにつれて、瀧子は忙しくなって来た。村にも北支への召集が下って女子青年の慰問袋作りが補習学校を中心にはじまった。生徒代表を引率して出征する兵を送りに出ることも、女教師の間で順番に割当てられた。県当局主催の時局問題講演会が屡々《しばしば》催された。教師は出席しなければならないことになっている。
 狭谷町公会堂で、時局精神振興講演会があった晩、瀧子は、ラジオの特別のニュースの声が流れている往来を駅までゆき子と歩いた。
「こないだの帯、ついまだかえさないですまないわね」
「そりゃかまわないけれど――あっちの方、どうした?」
「どうって」
 瀧子は、一種の厭悪をもって、今夜も役員席に納って彼方此方に目を配っていた山口の白いカラーにくびられている喉たんこのところを思い起した。
「あのひとったら、私の心持さえきまれば、内祝言でも早くしたいと言うんだけれど……」
「なかなか敏腕だし、ほかに難はないんだけどねえ」
 ゆき子は笑いもせず、はじめの細君が病気になったら、山口がその病気になった細君を背負って実家へ行って、一言も口をきかずに家の入口へ置いてかえって来てしまったという話をした。
「ほんとに、ひとっことも利かずだってさ。……どういうんだろ」
 その女がなおった時、山口はもう二度目の女を入れていて、しかもまた初めの妻とよりが戻り、二度目の妻の出たのはそれが原因なのであった。
 瀧子は、きちんと畳んだハンケチをもっている手を仄白い自分の無邪気な丸顔の前でふるようにして、
「もういい! もういい!」
と、つよく言った。「先からやいやい言うのに、ろくなのはないにきまっている――売屋敷とおんなじだわ」
 山口の方は、この頃のいそがしさで瀧子が落付いてひとに調査をたのむゆとりもないのにつけ入っているように見えた。身よりのない瀧子の二十七の女心がぐらついて、こちらに傾けばとだけつめよせて来ているのである。

 駅の構内の告知板には、日章旗と祝出征という字を赤インクで描いた紙に、川上大二郎君八月十四日、某々君同日と列記して張り出しがされた。
 夕立がすくないきびしい残暑がつづいた。息苦しいほど白く燃え乾いた午後の空気をゆすぶって、駅の方から汗まびれになった頸に筋を浮上らせて気が遠くなるように絶叫されるバンザーイの声々が響いて来る。その声々をのせて吹いて来る風は村なかの青桐の茂った梢にあたって、そこではもう秋めいた葉ずれの音を立てているのである。
 瀧子は、昼顔の花の咲いている四つ目垣のところへ張板をよせかけ、袷の赤い裏地をはっていた。近頃こうして一日うちにいられることは珍しい。いそいそとした気分で働いていると、玉蜀黍《とうもろこし》畑の蔭の近路を突ッきって、茶色と緑の縞の日傘がこっちに向って来るのが目に入った。その路は、停車場の柵沿いにすぐ畑へぬけている瀧子のすきな草深い小道である。手をとめてそっちを見ていると、暫く来て日傘がもちあげられた。その下から現れたのは、ゆき子の顔であった。庭から劈《き》って来たらしい花をハトロン紙で包んで手にもっている。ゆき子は、井戸端の小さい草堤を、親しさをあらわした大業さで、やっこら、とまたぎのぼり、
「おおかたこんなことだろうと思って、お八つをこしらえて来たわ」
 メリンス風呂敷の小重箱をさし出した。「すぐひやしといて――私もたべずに来たの」
 瀧子は白玉を冷たい井戸水の中にうつした。
 出してやった瀧子の浴衣にくつろいで白玉もたべ終り、ゆき子は最後の赤い小布が張板にのされるのをぼんやり眺めていたが、やがてちょっと改まった声で、
「ねえ、ちょっと」
 瀧子によびかけた。
「なあに」
「あなた、どうしても山口さんとこへ行く気しない?」
 いかにも意外な言いかたである。瀧子は思わず目を瞠って、
「何故そんなことを言うの、今更――」
 まじまじとゆき子の顔を打ちまもった。ゆき子は極りわるげで、わざとピンで髪をかくような顰《しか》め顔して瀧子の視線をさけつつ、
「私だってもちろん万全だと思ってはいやしないけれどね――召集されるかもしれないんだってさ」
「あのひとが?」
「今度
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング