は年配から云って……もしかしたらなんだって。自分が出たあと安心して家族を見てもらえる女は瀧さんしかないから是非って、うちの校長なんかを動かしにかかっているもんだから――……」
聞いているうちに、瀧子の柔かい耳朶に血がさしのぼって来るのが感じられた。ゆき子も、そこにつとめている一人の女教師として微妙な立場にいることは、同じ勤めの瀧子にわかるのである。瀧子は複雑な腹立たしさを、「私、いやだ」と、単純にはっきりした言葉で表現した。
「そんなのってありゃしない。女の一生をみんな何と思っているんだろう!」
そう言い切ると、このいきさつが始ってこのかた堪えていた涙が急に瀧子の眼から溢れた。
「そんなことまで口実に利用して……」
ゆき子は「そうなのさ!」善良さまる出しの同意でうなずいた。
「全くそうなんだけれど――こんな時期だから、うまく切り抜けないと……いろんな誤解されかねないから――なまじっか山口が有力者の端くれだもんだから本当に始末がわるいったらありゃしない」
狭い土地の環境では、山口ほどの男でもモーニング一着でも身につければ、青年学校の主事とか何とか相当の口の利き得るのは実際なのである。瀧子は、それが一番無念な気がした。
「かまやしない、私、どこまでだって頑ばる。ほかのことと違うじゃないの。それで学校やめさせるような卑劣なことをやるならやればいい」
「なんて生憎なんだろう……」
歎息するゆき子の悄然とした雀斑《そばかす》のある顔を見ると、瀧子はその弱腰を非難する気も失せるのである。あちこちで召集が下るようになってから、村役場で婚姻届の受付が殖えた。
「それと山口の場合とはちがいますよ」
瀧子はゆき子の肩をつかまえてしっかりして頂戴、とゆすぶるように言った。
「その人たちはもう結婚していたんじゃありませんか。万一の場合に遺族として法律上の手続きが完結している必要があるからそれをやったんじゃないの」
火曜日の夕方、瀧子のかえるのをどこかで待ってでもいたように、やっと浴衣に着換える間だけおいて、山口が表通りの方から入って来た。今日は彼も浴衣がけで、その大学を出たのでもないのに、藍の地に白の横縞とホーセイとローマ字がやっぱり白で出たのを着ている。これまでの闊達らしい風もなく、
「や、どうも重大なことになって来ましたな」
そこにあった号外を手にとりあげて、
「ふーむ、この分だと大分日本側として決意をかためとるらしいね」など、消息通めかして独言した。そして、
「きょうは、ひとつ、あなたの尊い日本婦人としての母性愛にすがって、もう一遍僕の気持をきいて頂きたいと思って」
と、山口の言うことは、瀧子がゆき子からきいた同じことがらを、もっと感激調に飾った内容であった。
「そりゃ、僕という男は欠点が多いです。人間だから、誤りもある。だが、子供らは、その罰を受けなけりゃならんというのはあまり不憫です。僕の僕としての純愛は理解して頂けると思うんだが……」
瀧子は、波立って来る心持を制して穏かに言った。
「そういうお心持なら、やっぱり一番いいのは生みのお母さんです。あなたの御事情がわかればその方もきっとよろこんでまたおかえりなさいますよ」
「――覆水盆にかえらず、です」
経済的な瀧子の条件に山口が目をつけている。また、女教師という地方では身動きの軽くない周囲からの旧いものの考えかたの掣肘も男の便宜として考えに入れている、そのことがまざまざとわかって、瀧子は口を利くのもものういのであった。
「どうぞ、この話はお打切りになって下さい」
一時間の余も対坐した後、瀧子は山口に言った。
「ひとが見たら私の我ままかもしれませんが、とにかく御希望に添いかねるんですから」
山口は、しきりに目瞬きをしながら、自分のやりかたのどこが瀧子の気に入らなかったかと思いかえしている風であった。
「どうも分らん」
そして、「こうやって御婦人一人のところに来たって、僕が一度だって怪しからん振舞に及ばないことを考えたって、人格を認めて貰えると思うんだが……」
団扇で顔の半分をかくしながら、瀧子は腹立たしいおかしさをやっと堪えた。ああこれはなんという愚劣な告白であろう。
次の日の帰り、汽車がこんで、瀧子は昇降台と車窓との境のところにオリーヴ色の袴の裾をはためかせながら立っていた。村の停車場の端れに川があって、短い鉄橋をゴッと渡ると機関手はいつもスピードをゆるめた。それから構内の組合倉庫が目の前を掠め、露天に砂利を敷いたプラット・フォームにかかるのであるが、機関車から二つ目の車輛にいた瀧子は、汽車が止りかけると、降りようとする人波にさからいながら急に無理な動作で、洗面所の前の見とおしのところへ体を引こめた。改札のところで駅夫と喋っている山口の姿が、むこうでこちらを見るより先に瀧子から見つけられたのは、本当の幸だった。瀧子はとっさにのり越しの決心をした。動き出した汽車の反対側の窓の方に席をとって、人の陰から改札のところを見ると山口は顔をこちらに向け、バットの灰をのばした人指し指ではたき落しながら立っている。
ガッタンと無器用に動き出した汽車はカンナの花の真盛りの構内花壇を通りすぎると、黒い柵に沿って次第に速力を出しはじめた。柵のところどころに、短い棒切れに結びつけた日の丸の旗が貧しげに出されている。誰かを出征させている家族が、そうやって自分の家の前の柵に日の丸を夜も昼も、還って来る日までと、出しているのであった。瀧子はきょう学校へ来た魚売の神さんが、よう覚悟しとったのに、どういうもんじゃろか、五体がふるいますけん、と真蒼な顔をして笑っていたのを思い出した。神さんのところには六人子がいるのであった。瀧子は、そうやって明け暮旗を出している人々の心持、魚うりの神さんの蒼い笑顔を思うと、鳥肌立つ気がした。そのような人々の切ない混りけない今の気持にのって山口のように生きようとしている男もあるのである。瀧子は深い心痛む思いにとらわれながら、二つ先の駅まで揺られて行った。
底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
1979(昭和54)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房
1951(昭和26)年5月発行
初出:「若草」
1937(昭和12)年10月号
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年4月22日作成
2003年7月20日修正
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