街
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)老耄《ろうもう》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)窓|硝子《ガラス》がガタガタ鳴った。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)失礼です《イズウィニーチェ》[#「失礼です」のルビ]が、
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一
一九一七年に、世界は一つの新しい伝説を得た。「ロシア革命」。当時、そのロシアに住んでいた者は、物心づいた子供から、老耄《ろうもう》の一つ手前に達した年寄りまで、それぞれ一生の逸話《アネクドート》を拾った。逸話は、いかにもこの国風な復活祭の卵のように色つきで、或る者のは白、或るもののは緑、或る者のは真赤だ。
レオニード・グレゴリウィッチ・ジェルテルスキーはやっと商業学校を出たばかりの青年であった。彼の父親は小さい町の工業家で、革命の時、理由あってか、多くの間違いのうちの一つの間違いによってか殺されて、河の氷の下へ突込まれた。ジェルテルスキーは、それから、母親を五日鶏の箱へ詰めた経験、真直自分の額に向けられた拳銃の筒口を張り飛したので、銃玉《たま》が二月の樺の木の幹へ穴をあけた陰気な光景などを、彼の逸話として得た。
一九二九年、ジェルテルスキーは彼の東京で二度目の冬を迎えた。勤めている或る週刊新聞社は、赤坂の電車通りに面して建っていた。水色のペンキで羽目板を塗り、白で枠を取った二階建ての粗末なバラックであった。階下が発送部で、階上が編輯室だ。誰かが少し無遠慮に階段を下りると、室じゅうが震えるその二階の一つの机、一台のタイプライターを、ジェルテルスキーは全力をつくして手に入れたのであった。
薄曇りの午後、強い風が吹くごとに煙幕のような砂塵が往来に立った。窓|硝子《ガラス》がガタガタ鳴った。洋袴《ズボン》のポケットへ両手を突こみ、社長が窓から外を眺めていた。
「フッ! 何という埃《ほこり》だ。――こんなやつあニガリ撒いた位じゃ利かないもんかな」
「――…………」
誰も返事しなかった。編輯員の一人は、片手で髭を引っぱりながら熱心に露文和訳をしていた。向いの机で、邦字新聞から経済記事を他の一人が抄訳している。黒ビロードのルパシカを着たジェルテルスキーは、最も窓に近い卓子で露字新聞を読んでいた。彼は、社長の独言から、何という埃だ。利かないもんかな、などと云う言葉を理解した。小心なジェルテルスキーはその場合、一番彼に近くいる位置の関係から云っても、何とか一言親しみある言葉を与えたかった。然し、彼には適当な日本語が見つからない。――つまり彼も黙って、タイプライターを打ち始めた。
「最近地方図書館は著しき発達を遂げた。現在に於て地方図書館の数は六千五百を数えられている」
外の往来をトラックが通るひどい音がし、ブルルル新聞社の建物全体が震動した。一人が思い出したように立って、室の隅の水道栓のところで含漱《うがい》を始めた。社長は次の室へ去った。――
階子口のところへ、給仕娘の顔が出た。
「ジェルテルスキーさん、御面会ですよ」
「だれです?」
「御婦人の方がお二人で下に待っていらっしゃいます」
ジェルテルスキーは長い椅子からたちながら、金髪をかき上げ、水のような碧《あお》い眼を訝《いぶか》しげに動かした。柱時計は二時十五分を示している。ジェルテルスキーは、靴をはいた足の長さの三分の一は確にあまる浅い階子《はしご》段を注意深く下りて行った。
「来ます?」
「ええ直ぐいらっしゃいます」
腰をかがめてその声の方を覗き、ジェルテルスキーは意外さと漠然とした当惑とで、
「おお」
蒼白い顔を少し赧《あか》らめた。再び金髪をかき上げる暇もなく、彼はブーキン夫人の有名な饒舌に捕まった。
「ああ、レオニード・グレゴリウィッチ! お目にかかれて何て仕合せだったんでしょう。さ、どうか早く下りて来て私共の相談相手になって下さい」
交際で、ジェルテルスキーはもうブーキン夫人を取扱うこつを心得ていた。彼は、内気そうな、同時に頑固そうなところもある微笑を浮べながら、先ず黙って、さし出された対手の手を握った。
「いかがです」
次に彼は、傍《かたわら》に立っている、太ったマリーナ・イワーノヴナに挨拶した。いつも傲然と胸をつき出し、ジェルテルスキーを子供扱いにしているマリーナ・イワーノヴナが、今日はどうしたことか、彼の挨拶に、うなずいて答えるのだけがやっとらしい有様であった。それを、ブーキン夫人が尤《もっと》もだ、尤もだというように、吐息をついて眺めた。
「ねえ、レオニード・グレゴリウィッチ、マリーナ・イワーノヴナが何ともお気の毒なことになりましてね、私、御相談を受けて友達甲斐にお見捨てすること出来なくなったんですよ、マリーナ・イワーノヴナ、よくレオニード・グレゴリウィッチに事情をお話しなさいませよ、若い人の心は寛大だから、きっと貴女の御満足の行くように計らってお貰いになれますよ」
発送掛の小僧や事務員、さっきの給仕娘まで今は一斉に仕事をやめ、深い好奇心に輝いて、ジェルテルスキー自身にもまだ訳の分らない話を眺めている。彼は、
「失礼ですが、此方に椅子がありますから」
と、二人の女を応接間に通した。がらんとした白壁の裾には、荒繩で束った日露時報の返品が塵にまみれて積んである。弾機《ばね》もない堅い椅子が四五脚、むき出しの円卓子《まるテーブル》の周囲に乱雑に置いてあった。その一つを腰の下に引きよせるや否や、ブーキン夫人は新しい勢いで云いだした。
「レオニード・グレゴリウィッチ、どうか貴方、可哀そうなマリーナ・イワーノヴナの忠実な騎士になって上げて下さい、ね、お拒みなさりはしませんわね」
ジェルテルスキーは、黒い洋袴を穿《は》いた脚を組みながら、丁寧に碧い眼を見開いて対手を見守った。
「|失礼です《イズウィニーチェ》が、夫人《マダム》、私はまだちっともお話の内容がわからないんですが」
「まあ本当に! 私、いつも熱中するとこうなんですの、そしては宅に驢馬《ろば》っていわれるんですの――ホッホホホ」
何故この夫人ばかりは、ナデージュタ・ペトローヴナと呼ばれず、マダム・ブーキンと云うのか誰も理由を知らなかった。
彼女は名刺にマダム・ブーキンと刷らせた。ジェルテルスキーが、上海で始めて彼女に紹介された時、彼女は、何か特種な称号でも云うように、
「ええ、私マダム・ブーキンと申しますの、どうぞよろしく」
と紅をさした頬で微笑《わら》った。髪の黒い、黒い眼のキラキラした痩せぎすの彼女にとって、マダム・ブーキンというのは頬に紅をさすのと同じに、一つの趣味に過ぎないのだろう。ジェルテルスキーは、蒲田でこの夫人の若い愛人になったことがあった。――撮映されたのだ。――
非常に豊富な間投詞と詠歎との間からジェルテルスキーが得た知識は、マリーナ・イワーノヴナが、夫のエーゴル・マクシモヴィッチと激しい夫婦喧嘩をしたこと、その原因はエーゴル・マクシモヴィッチがマリーナから借りて返さない三百円の金にあること、もう二度と帰らない決心で家を飛び出して来たと云う事実であった。
「もう絶望のどん底で私のところへ今朝いらっしったんですの、一緒に泣いてしまいましたわ。ねえ、マリーナ・イワーノヴナ、私も女ですよ、あなたの辛いお心がひとごととは思えませんわ。――それでね、レオニード・グレゴリーウィッチ、お願いと申しますのはね、あなた当分、この不幸な方を保護して上げて下さいませんこと?」
ジェルテルスキーは、咽喉仏《のどぼとけ》を引き下げるようにして低い声で答えた。
「私の力にかなうことなら悦《よろこ》んでお力になります」
が、そう云い終ると同時に、彼の艶のない白っぽい眉毛の生えた額際を我にもあらず薄赧くした。たった一間しかない住居のこと、彼の衣嚢《ポケット》にある一枚の十円札のことなどが、瞬間彼の頭を掠めたのであった。
彼が赧くなると、マダム・ブーキンも一寸上気しながら、大仰に吐息をついた。
「私、出来ることなら切角来て下すったんですもの、家へ幾日でもいていただきたいと思いますわ。どんなにまた仕合せにおなりになるまで、傍にいて慰めてお上げしたいでしょう。――でも……」
マダム・ブーキンは若い娘のような身振りで膝の上に擦れた手提袋の紐を引っぱった。
「ああ、みんな元のようではないんですものね、それに私のところには小さいものもいますし――」
ジェルテルスキーは、これまで下手にばかり自分の身を置いてつき合って来た二人の年長の女たちの間に挾まれ、進退|谷《きわ》まった。彼は、二人のどちらにも、世話と云えば世話になったことがあるのであった。マダム・ブーキンは彼女の映画会社へ、餓死しそうになっていた彼を紹介して呉れた。マリーナ・イワーノヴナは夫婦とも裁縫師で、ジェルテルスキーは妻のための内職を、マリーナ・イワーノヴナのところから貰って来ていた。今もいる。――恐らく彼が、片手でルパシカの胸を抱え、右手で頻りに金髪を撫でつつ、決心しかねている今の瞬間、若いダーシェンカは、手ミシンを廻しながら、子供服の袖でもつけているであろう。
マリーナ・イワーノヴナは、殆ど一口も物を云わないでかけていた。物を云ったら太った体じゅうの悲しみと絶望が爆発するのを恐れて唇を結んでいるようであった。ただ、目をはなさずジェルテルスキーの顔を見守った。何とつよく見ることだ。充血した二つの目と蒼黄色く荒れた二つの頬とで、彼女は答を待っている。――マダム・ブーキンもすべて云うだけの事は云ってしまった。そして、彼の口許を見た。――ジェルテルスキーは、そのように押しづよい女の四つの目で見つめられる自分の口許に髭の無いことが、変に気になった程、沈黙は脅威的であった。彼は遂に、
「では兎《と》も角《かく》私の家へお伴しましょう」
と云った。
「ダーリヤ・パヴロヴナに一度都合をきいて見ませんとどうも――若し彼女にさしつかえないようだったら、勿論私共は悦んでお宿致します」
マダム・ブーキンはちらりと素早い流眄《ながしめ》をマリーナに与えた。が、気落ちしているマリーナ・イワーノヴナはそれを捕えず、ただジェルテルスキーが家へ行こうと云ったのをだけ理解したように、重々しく椅子から立ち上った。
二
数ヵ月のうちに母親になろうとする体のダーリヤ・パヴロヴナは、狭い部屋の中を悠《ゆっ》くり隅から隅へ歩いていた。レオニード・グレゴリウィッチが電車賃を節約するために勤め先と同じ区内にこの貸間を見つけたのであった。主人は請負師であったが、この男は家にいない。妻らしい女も見えなかった。階下には六畳、三畳、台所とある、日光のよくささないところに六十余の婆と六つばかりの女の児が生活していた。
往来に面した窓の外を、ここでも今日は砂塵が、硝子を曇らして舞い過ぎた。ダーリヤは自分独りの時は石油ストウブを燃《た》かないことにしていた。それ故室内は暖かではない。然し、決して居心地悪い場所とは云えなかった。窓には白地に花模様の金巾《カナキン》のカーテンが懸っていた。一畳ばかりの勝手を区切る戸の硝子は赤い木綿糸でロシア式刺繍をした覆いがかかっているし、二階から上って来る、ジェルテルスキー家の入口である襖の左右にも、アーチのように、海老茶色に白でダリヤの花の模様あるメリンス布が垂れ下っていた。柱にかけた鏡の上に飾ってあるバラの造花、ビール箱を四つ並べた寝台の頭上の長押《なげし》に、遠慮深くのせられてある三寸ばかりのキリストの肖像。――それ等は、悠くり、隅から隅へ歩いているダーリヤのやや田舎風な、にくげない全体とよく調和していた。レオニード・グレゴリウィッチはひどく背が高い。ダーリヤも二寸位しか低くなかった。そして同じように、余り艶のない金髪である。
――二十度近くも室内散歩を繰返えすと、ダーリヤは、窓の前の卓子へ戻った。その辺の畳へ、細かい羅紗の裁ち屑が沢山散らばっていた。彼女はさっきまで子供外套の裁断
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