をしていたのだ。産科医の注意で、彼女は一日のうちに幾度かそうやって、かけていれば立って歩く、たっていればかける、或は体を長くのばして横わる。いろいろ姿勢をかえる必要があるのであった。それが書き物机にもなるし食卓にもなる机から布をかたづけているうちに、ダーリヤは少し疲れを覚えた。頬杖をつく。――風が吹きすぎる毎に思わず顰《しか》め顔をしながら外の景色を眺める。バラックのスレートの屋根屋根、その彼方に突立つ葉のない巨大なる焼棒杭《やけぼっくい》のような樹木。……遠くの物干へ女が出て来て、真白なシイツらしい布を乾した。女は去る。風が吹く。白い洗濯物は気違いのようにはためいた。曇った空とその砂塵の中で真白い一枚の布は何かを感じているように動く。ダーリヤ・パヴロヴナは、ぼんやりした一種の物思いに捕われた。それは悲しみではないし、苦しみとまで鋭いものでもない。何か広い、果しない、目的の定まらないものの中に混りこみ、生きている自分達――そんな感じだ。いろいろな場所で種々な習慣言葉を持つ民衆の中に生活して来たダーリヤは、東京で、不便な言葉で、その上きりつめて暮さなければならないことに驚きはしなかった。レオニード・グレゴリウィッチが彼女の夫であると同じそれは不変の事実だ。ああ、リョーニャ! ダーリヤ・パヴロヴナの素朴な顔はその名に燃える。彼と、今自分の体の中で次第に重く、何とも云えぬ可愛いさで重く重くと育って来る嬰児《えいじ》とに向って、彼女の心臓は打っている。
「神よ、護り給え――」
然し、愛するリョーニャと自分の可愛い可愛い子と三人の暮し、その行末――その先の行末――。ダーリヤの妻から母になろうとする若い胸には、こう考えて来ると、いつも、永久に消え去る一条の煙の果を眺めるような当途《あてど》もない心持が湧くのであった。彼女には、レオニード・グレゴリウィッチがこれ以上立身をして、自分達の生活に変りが起ろうとも思えなかった。一生のうちに、また故郷の草原を見、丸木小屋に坐って温まって来る壁の匂いをかぐ懐かしい冬の夜にめぐり合うことも無いであろう。それでも、生活は続いている。自分達の死んだ後、けれども、国籍をも持たぬ子孫は、どこで、どうやって生きるであろうか。彼等の生活も、自分達二親の生活がそうであるように、苔のように根のついたところで、根を切られぬ限り、その日その日つづいていくのであろう。然し、自分達の墓のある土地で彼等が生きつづける――どうしてそんなことが夢見られよう! ダーリヤ・パヴロヴナ自身にさえ、彼女の一生は地球儀のどの色で塗られている場所で終るのか、予想もつかないではないか。地球の面の広さ、そこに撒かれた自分達の生活の何とも云えず拠《よ》りどころなき立場――。ダーリヤ・パブロヴナは、今日のような曇った空の下によせている一つの海を想い出した。
彼女は敦賀行汽船の最低甲板から海を眺めていた。海はあの埃をかぶったスレート屋根の色をしていた。タブ……タブ……物懶《ものう》く海水が船腹にぶつかり、波間に蕪《かぶ》、木片、油がギラギラ浮いていた。彼方に、修繕で船体を朱色に塗りたくられた船が皮膚患者のように見えた。鴎がその檣《ほばしら》のまわりを飛んだ。起重機の響……。
ダーリヤの、どこまでも続く思い出を突然断ち切るように、階下で風に煽られたように入口が開いた。
「あら、これ、家の娘さんですの、悧口そうな眼つきだこと……何ていう名なのお前さん」
「我々の言葉を理解しないんですよ、ちっとも」
レオニード・グレゴリウィッチのそれは声だ。ダーリヤは、いそいで階子口の襖をあけて下を覗いた。ブーキン夫人が真先に靴をぬいで階段に足をかけ、彼女に向って身振沢山に手を振った。
「おお、おお、あなたは本当に仕合せものよ、可愛いダーシェンカ! こんな天気に外を歩いて来て御覧なさい」
次いで、マリーナ・イワーノヴナ、最後にジェルテルスキーの長い脚が、左右、左右、階段の上に隠れるのを見届けると、下の小さい娘は自分達の部屋へかけ込み、息を殺して、
「お婆ちゃん、三人、異人さん」
と報告した。
三
長火鉢をはさんで姪《めい》の志津と話し込み、せきは孫の報告をききつけなかった。
「だからさ、そりゃ私みのるさんの覚悟が悪いって云ったのさ。義理にもせよ阿母さんだと思えばこそ、善ちゃんが自分の稼ぎで寒いめもさせないんだからね。孫の看病位お前……」
「おばあちゃん!」
うめは、祖母の黒繻子の衿《えり》にハンケチをかけた肩にもたれかかって押した。
「三人ですってば、異人さん」
「分りましたとさ」
長火鉢の向う側から、志津が云った。
「いい門番さんがいるのねえ、おばあさんとこ」
せきは、長火鉢の縁で煙管《きせる》をはたき、大人の女でもみるような風に六つの孫娘をじろりと見た。
「おかしな子ったらないのさ、異人さん異人さんって大騒ぎさ。もうちっと大きかったらとんだ苦労だ」
「ふふふ、まさか!――珍しいんだわねえ、うめ坊」
うめは、祖母の横に坐り、上眼づかいで伯母を見上げながら、にっとはにかみ笑いをした。おかっぱで、元禄の被布を着て、うめは器量の悪い娘ではなかったが、誰からも本当に可愛がられることのない娘であった。蒼白い顔色や、変にませた言葉づかいが、育たないうちにしなびた大人のような印象を与えた。年寄りの祖母に、遊び仲間もなく育てられているうちに、うめは、六つで、もう年寄りになりかけているのであった。志津は、甘えて横座りしているうめを愛情と焦立たしさの混った眼で眺めながら、
「うめちゃん、何て名? お二階の異人さん」
と訊いた。
「ジェリさん」
「――本当? お菓子みたいな名なんだねえ」
「違うんだよ、ジェル何とか云うんだそうだけえど、あんな長い名覚えられるもんじゃあない、名なんぞ呼ぶ用がありゃしないよ」
「――二階に人がいると、でも淋しくなくっていいわ。そろそろ下駄片づけちゃどう」
せきは、薄い苦笑いを洩らした。いつか志津が遊びに来た時、
「まあ、どうしたのあの上り口の下駄ったら、何人家内です、こちらさん」
と云ったことがあった。するとうめが、とても声をひそめて伯母に説明してきかせた。
「あの下駄はね、本当は誰にも云っちゃいけないんですけれどね、わざと置いとくの。うち、おばあちゃんとうめだけで不用心だから」
志津は、田丸屋のかき餅をつまみながら、
「いくらで貸してるの」
と尋ねた。
「二十四円さ」
「おばあさん一人のお小遣いだもん結構だわ」
暫く黙っていたが、せきは軈《やが》て、
「作も仕様のない人間さ」
と呟いた。仕事の為とは云いながら、小さい孫を押しつけて旅先に暮らすことの多い作造に不満を抱いているのだろうと志津は思った。全く、婆さんだけの家というのは、何故変に湿っぽいようで、線香のような煎薬《せんやく》のような一種の臭いが浸みついているのだろう。志津は、或る人の世話になって、退屈勝な毎日を送っていた。他に身寄りもないので、彼女は喋りに来るのであったが、天気のどんなによい日でも、この長火鉢の前にいると戸外に日が照っていることを忘れてしまうようであった。
「作さんも、おかみさん貰えばいいのに――」
「ふん――何してるんだか――なに、この家だって、第一変てこれんな洋館まがいになんかしないで、小気の利いた日本間にしといて御覧、いくらバラックだって、この界隈のこったもの、女一人位のいい借り手がつくのさ。――仕様がありゃしない、半年も札下げとくの、第一外聞が悪いやね」
「だって書生さんなんかより異人さんの方がよかないの、金廻りがいいそうだもの」
せきは、
「どうして!」
と、顔じゅう顰めて首を振った。
「とてもだよ。出たり入ったりにうめの顔飽きる程見てたって、キャラメル一つ買って来るじゃないからね」
間をおき、更に云った。
「第一、気心が知れやしない」
志津は、
「ほーら、そろそろおばあさんの第一[#「第一」に傍点]が始まった」と笑った。
「本当だよ、嘘だと思ったら見て御覧、我々なら大抵まあその人の眼つきを見りゃ、腹で何思ってるか位、凡《およ》その見当はつくじゃないか。二階の異人さん、こないだも私、どんな気でいるのかさぐってやれと思って、台所へ水汲みに来た時、世間話してやったのさ。喋りながら一生懸命眼を見てやるんだが――困ったねあのときばかりゃ、お前ただ変てこりんに碧いばっかりでさ――本当に――余り碧いんでおしまいにゃ気味が悪くなって引下っちゃった」
「ふふふふ、おかしなおばあさん、二階で嚏《くしゃみ》してるわよ、今頃」
凝《じ》っと二人の話をきいていたうめが、その時、いかにもませた調子で、
「ちょっと! 来ますよ」
と警告した。成程、誰かが階子を一段ずつ念入りに降りて来る跫音《あしおと》がする。志津は、一寸肩をすくめるようにして舌を出す真似をした。
「ふふふふ……」
婆さんも釣込まれて薄笑いしながら、新しい煙草をつめ始めた。うめは、障子の隙間から板敷を覗いている。その後姿を見、志津はやがて、
「あーあ」
小さい欠伸《あくび》をしながら、
「もう何時?」
と云った。
「日が短い最中だね、四時一寸廻った頃だろう」
うめが、二人の前に顔をさしつけて、
「女の異人さんですよ、よその」
と云った。が、誰も答えず、志津が、立ち上って腰紐を締めなおしながら、
「どう、おばあさんお鮨《すし》でもおごろうじゃあないの」
と云った。せきは、上の空で、
「そうさねえ」
と応じながら、熱心に志津の八反の着物や、藤紫の半襟を下から見上げた。
「――その着物、さらだね」
「おばあさんにゃ、十度目でもさらだから始末がいいわ――ね、本当にどうする? 私これからかえったって仕様がないから、冷たくってよかったらお鮨でも食べようじゃないの」
「いつもお前にばっかり散財かけてすまないようだね」
「水臭いの。――じゃ一寸云って来るわよ」
ごたごた、主のない下駄まで並んでいる上り口で、自分の草履をはきながら、志津は珍らしそうに、そこにぬいである女靴を眺めた。
「まあ、細い靴、よくあの体でこんな靴はけるもんね」
「子供んちから締めてあるのさ――見かけばかりでは仕様がありゃしないよ」
せきは、軽蔑するように囁いた。
「はばかりから出ても手を洗うこと一つ知らないんだからね」
「――……いい塩梅に風が落ちた……」襟巻をきゅっと引きつけ志津は街燈のついた往来へ出て行った。
四
明るい冬の日光が窓からさし込んで室内に流れた。土曜日だ。もう往来で遊んでいる子供の声が、彼等の二階まで聞えた。ダーリヤ・パヴロヴナはゆったり長い膝の上に布をたぐめて、縁とりをしている。向い側に、髪をもしゃもしゃにしたままのマリーナ・イワーノヴナが茶色のスウェタアに包まれ、頬杖をついてダーリヤの指先の動きを眺めていた。彼女の前に、白と桃色の毛糸で編みかけの嬰児帽が放り出してある。彼女がこの二階に来てから五日経った。ダーリヤも、マリーナも、その五日を実にはっきり数えて過して来たのだ。――
「アーニャ、何ぐずぐずしているんだろう」
マリーナが、その日何度目かにぶつぶつ云い出した。
「あの娘《こ》には、どんなに教えたって物を手取早くするということが解らないんだから――エーゴルの姪に違いないわ」
ダーリヤは落付いた調子で答えた。
「子供ですものまだ何と云ったって――でも本当に年より役に立っていますわ」
マリーナは朝から、養女のアーニャが麻布の夫の家から使に来るのを待っているのであった。
「私に充分正当の理由のある衝突でこうやっているのに、顧客《とくい》まで失くしちゃいられないわ、ねえ」
彼女は、自分のところへ来た注文はどんな小さいものでも、洩れなくアーニャにダーリヤの二階まで運ばせた。彼等夫婦の間には他人の理解出来ない特別の諒解があると見え、そんな持続的の喧嘩をしつつ、エーゴル・マクシモヴィッチの方も、妻の稼ぎに対しては咳払い一つしないらしかった。そんなことは、ダーリヤの常識に
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