るダーリヤはマリーナを擁《だ》きしめたい程感動した。彼女は、立って室内を歩き出した。マリーナは吐息をつき、頭を振り、編物をとり上げた。往来に遊んでいた子供はどこへか去り、あたりは暫く静かであった。向い側の店々が正面から午後の斜光を受けている。ダーリヤが窓のそばへ歩きよる毎に、日除けの下に赤いエナメルの煙草屋の商牌《しょうはい》が下っているのが見えた。タバコ。コバタ。バタコ。――それは色々に読むことが出来た。――
三時過て、レオニード・グレゴリウィッチは勤め先から帰って来た。先ず帽子を脱ぎ、マリーナ・イワーノヴナに挨拶をし、彼は、ダーリヤの手ミシンの蓋をはずして畳に立て、跨《またが》った。彼等の生活には、椅子が二脚しかないのであった。ダーリヤは茶の仕度に立った。
「どうです? 何か面白いことでもありまして?」
金髪をかき上げながら、ジェルテルスキーは喉音で、
「なんにも。毎日同じ顔――同じ仕事です」
と答えた。彼は妻だけであったら、その後へ、
「相変らず碌なことはない」
とつけ加えたかったのを堪えたのだ。今日、昼食を食べて煙草を吸っていると、不意に松崎が上って来た。
「やあ、どうです
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