、アーニャに飲ませてからでなけりゃ珈琲《コーヒー》も飲まないんですよ」
それは、エーゴル・マクシモヴィッチの家庭を知っている者の間に評判の事実であった。
五
「エーゴル・マクシモヴィッチだって、元からあんなではなかったのにねえ」
マリーナは、追想に堪えぬように云った。
「私共だって、あんた方のように若い気軽な夫婦だった事もあるのよ、ダーシェンカ。大きな裁板《たちいた》の前でエーゴルが裁つ。私が縫う。これにエーゴルが仕上をして顧客へ届ける。少しずつお金をためる。飾窓へやっと一つ着付人形を買う――あの時分の楽しかったこと……その時分からエーゴルはマンドリンが上手《うま》くてね、町で評判だった。自分が弾《ひ》いては私によく踊らせたもんだわ。……そうこうしてやっとまあ食うに困らない目当がつくようになったかと思うと、どう? 機関銃が兵隊と一緒に家へ舞い込んで来た。『貴様等は出ろ! 俺達が今日からここの主人だ』」
マリーナの、下瞼の膨《ふく》れた眼に涙が滲み出た。
「世の中のことは、何だって訳なしに起るもんじゃないから、店位とられたことは私も諦めますさ、自分の知らない罪で雷に打たれて死ぬ人さえあるんだものね。でも、私たった一つ諦められないのは、エーゴルをあんな恐しい男にしてしまってくれたことよ、ダーシェンカ。……元を知っている私にはやっぱり離れられない……私共はね、ダーリヤ・パヴロヴナ、二十二年一緒に暮して来たんですよ……」
しんみりしたマリーナの話をきいているうちに、ダーリヤはこれまで知らなかった深い悲しみがマリーナの心にあるのを知った。彼女はそうとも知らず他の友達と茶をのみながら、
「さ、アーニャ、お前のみなさい」
「はい、叔父さん」
エーゴル・マクシモヴィッチと哀れな姪の真似をして大笑いした自分達を私《ひそ》かに恥じた。ダーリヤは、真心から動かされて、対手の手を執った。
「マリーナ・イワーノヴナ、だあれもあなたがそんなに悲しい方だとは知らないでしょう、きっと。――若し、私、あなたに思いやりのないことをしていたら許して下さいね」
マリーナは、合点合点をし、ダーリヤの滑《なめ》らかな血色のよい頬を情をこめて撫でたたいた。
「可愛いダーシェンカ、あんたは優しいいい娘さんですよ、――どうか立派な児供が生れますように」
妊娠のために感じ易くなっているダーリヤはマリーナを擁《だ》きしめたい程感動した。彼女は、立って室内を歩き出した。マリーナは吐息をつき、頭を振り、編物をとり上げた。往来に遊んでいた子供はどこへか去り、あたりは暫く静かであった。向い側の店々が正面から午後の斜光を受けている。ダーリヤが窓のそばへ歩きよる毎に、日除けの下に赤いエナメルの煙草屋の商牌《しょうはい》が下っているのが見えた。タバコ。コバタ。バタコ。――それは色々に読むことが出来た。――
三時過て、レオニード・グレゴリウィッチは勤め先から帰って来た。先ず帽子を脱ぎ、マリーナ・イワーノヴナに挨拶をし、彼は、ダーリヤの手ミシンの蓋をはずして畳に立て、跨《またが》った。彼等の生活には、椅子が二脚しかないのであった。ダーリヤは茶の仕度に立った。
「どうです? 何か面白いことでもありまして?」
金髪をかき上げながら、ジェルテルスキーは喉音で、
「なんにも。毎日同じ顔――同じ仕事です」
と答えた。彼は妻だけであったら、その後へ、
「相変らず碌なことはない」
とつけ加えたかったのを堪えたのだ。今日、昼食を食べて煙草を吸っていると、不意に松崎が上って来た。
「やあ、どうです、やってますね」
編輯員の誰彼に愛嬌を振りまきつつ、彼はジェルテルスキーの机の横へ椅子を引張って来た。
「大分暖いですね、今日は。奥さんお達者ですか? 一寸通りかかったもんで、どうしていられるかと思ってね」
松崎はちらちらジェルテルスキーがタイプライターで打ちかけている草稿を覗いたり、積みかさねてある新着の露字新聞を引き出して目を通したりしていたが、
「ああ、近頃何でもルイコフ君の細君が貴方のところへ行っているそうじゃありませんか」
と云った。彼は、全体小柄で丸い胴の上にのっている健康らしい顔に、他意なさそうな笑いを漲《みなぎ》らしながら続けた。
「一体どうしたんです? ルイコフ君迎えにも来ないんですか?」
「……マリーナ・イワーノヴナが考えている程に重大に思っていないんでしょう。大方」
「へえ――何でそんなに衝突したんです? ルイコフ君、浮気でも始めたかなハハハハ」
ジェルテルスキーは、聞き手がもうすっかり知り抜いているに違いないのに、改めて、極めて自然に質問するので、礼儀上からでもそれに答えなければならない不愉快を忍びつつ、大略を話した。猫背に見える程ベルトを高いところで締め
前へ
次へ
全11ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング