は変に思えた。喧嘩が本気なのかどうか疑わしい心持になった。マリーナにとっても、夫のそういう態度は不満であった。自分一人の口過ぎさえしていれば、エーゴル・マクシモヴィッチにとって自分はどこに暮していようとかまわない存在なのか。三百円返す気はないのか。異様な不安が、彼女の厚い、ややじだらくな胸を掻き廻すのであった。ダーリヤは、彼女の自信のない心の底を見透して、或る時は哀れに、或る時は若い女らしい皮肉を感じた。けれども、何も見ないつもりにしている。マリーナも、それについては沈黙を守っている。騒ぎやのマリーナ・イワーノヴナに対して、ダーリヤは私《ひそ》かに自分の平静な気質に誇りさえ感じているのであった。
 ダーリヤが、縁取りの三分の二も進んだ頃、やっと下で、
「叔母《チョーチャ》さん」
と呼ぶ、アーニャの細い、神経質な声がした。
「やっと来た!」
 ずしり、ずしり降りてゆき、マリーナが、
「迷児にでもなったんだろう? 馬鹿だから……ふーむ、まあいい、いい。――それで?」
 切れ切れに云う声が聞える。突然彼女は大声で笑い出した。
「ハハハハ何ておかしいんだろう! ダーシェンカ! まあ一寸来てこの様子を御覧」
 その叫びで、十三の痩せて雀斑《そばかす》だらけのアーニャは、生え際まで赧くなった。彼女は憤ったように垂髪《おさげ》を背中の方へ振りさばいて、叔母を睨んだ。彼女は、リボンのかわりに叔母の裁ち屑箱から細い紫繻子《サテン》の布端《きれはし》を見つけ出した。彼女はそれを帽子を買って貰えない栗色の垂髪の先に蝶々に結び、道々も掌《て》の上で弾ませながら歩いてきたのであった。
「とんだお嬢さんだね、ハハハハハ貴女の親切な叔父さんが似合うと仰云いましたか?」
 例によって、入口が開くと同時に顔を出したうめが、階子のかげから異常な注意をあつめて、この光景を観ていた。アーニャの色艶のない小さい顔が泣きそうに赧くなる。元通りそれが白くなる。やがて、片脚をひょこりと後に引く辞儀をして土間から出て行く迄、うめは動物的な好奇心とぼんやりした敵意とを感じながら見守った。
「どうでした?」
 マリーナは答えのかわりに、両腕を開いて見せた。当にしていた注文が流れたのであった。彼女は、元の椅子にかけた。が、
「あああ」大きな吐息をついた。
「あんたなんぞ本当に仕合せだわ、ねえ、ダーシェンカ、ちゃんとリョーナにたよって暮していられるんだもの。私なんぞ惨《みじ》めなものだ、仕事がなくなって御覧なさい、どうして生きられて?」
「だって――貴女お金持じゃありませんか」
 何心なく云ったダーリヤの言葉は、思いがけない反響を呼び起した。マリーナは、
「ね、後生《ごしょう》だからダーシェンカ」
 心臓でも搾《しぼ》られるように云って、ダーリヤの手頸を捕え、自分の胸に押しつけた。
「どうか私がただの吝嗇坊《しわんぼう》で、お金のことをやかましく云うのだと見下ないで下さいね? 私あなたがたが黙ってても心でさぞ賤《いや》しい女だと思っているだろうと思うととても辛いの。ね! ダーシェンカ、親切なダーシェンカ、あなただけは私を分ってくれるでしょう?」
 ダーリヤは唐突真情を吐露された間の悪さと一緒に少なからず心を動かされた。
「それは、マリーナ、あなたにはあなたの十字架があるのはお察ししています」
 マリーナは嬉しそうにダーリヤを見て合点合点をした。
「本当にそうよ、十字架!――ね、ダーシェンカ、あなたにはまだまだ私位の年になった女がどんな恐しい心持で将来を見るか想像も出来やしないわ。保護して呉れる国もない、若さもない、夫もない。――エーゴルは、死んだって、生きかえった時を心配して墓まで金を縫い込んだ襯衣《シャツ》を着て行く人ですよ――ああ、その時のことを想って御覧なさい。何が力? その時死から私を守って呉れるのは金だけですよ、その金も、もう新しく蓄《た》められる金ではない、一|哥《カペイカ》ずつ消えて行く金、二度と我が手にはとりかえせない金です。私にはその一哥を出さなけりゃならない時の恐しさが今からありあり、目に見える程わかっている。――だからね、ダーシェンカ、三百円は、私にとってただの金ではないんですよ、命の一部分なの、それを、ね、ダーシェンカ、そんな思いでためている金を、私より技量《うで》のある、丈夫なエーゴルに騙《かた》りとられて黙っていられるでしょうか、ね、ダーシェンカ」
 ダーリヤは思わず優しく静脈の浮き上った指先の短いマリーナの手を撫でた。
「きっと今にエーゴル・マクシモヴィッチはお返しなさいますよ、ただ約束の日にかえせなかったというだけですよ」
「――エーゴル・マクシモヴィッチは、どうしてああ慾張りなんでしょうねえ、私が殺すと思ってこわがるなんて――ダーシェンカ、あのひとは
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